秋を感じて   寄稿者  銀鈴

カレンダーの上の「立秋」、平安の歌人藤原
敏行の「~~~風の音にぞ~~」、サトウハ
チローの詩「小さい秋みつけた」など、先人
たちの発言をそのまま鵜呑みして秋を感じて
きたが、コロナ禍で一人歩きをするようにな
って、私なりの秋を感じて、納得し始めてい
る。先人たちの秋はそれぞれの経験からの発
見であろう。経験から感じることは千差万別
である。そこが面白いと思うが、他の人の経
験による知識からではなく、私個人にも与え
られ備えられている五体五感をフルに用いて
、特に自然現象には経験的に感じていきたい
と思うようになった。

秋が来ている。炎熱の日々の中にすでに秋が
いる。昼間のカンカン照りを避けて日没を見計らって歩きはじめる。日陰を選んで歩くが、時に陽の中に出ることもあるので、必ず日傘を持って行く。日傘はときどき杖代わりにも使う。マスクで覆われている顔がじきに上気してくる。息が熱い。日傘でなく帽子でもいいが頭が熱くなり息切れがしてくる。

日足が短くなっている。これが私の秋発見の一番の出来事である。「日足」とは先人たちの素朴な感じの表現だろう。太陽を生き物のように見ているのだろう。人の眼に短くなった足は夜の闇に向かって進んでいるのか。

梅雨明け以来午後6時を待つように外に出てきたが、8月も半ばが来ようとしている今は、いつのまにか30分早くなっている。日の没する空の位置がだいぶ南寄りになっている。しばらく前まで見えた夕焼けがその位置にないのだ。陽が沈んでもなおしばらく明るかった空が急ぎ足で暗くなっていく。季節は一日もとどまることなく進んでいる、次の季節秋に向かって。季節は勤勉だ。創造主のご計画に忠実だ。麗しい主従関係ではないか。

足元が変わってきた。繁茂し続けた草むらに生気がない。もう伸びないのか、うなだれている。すでに枯れ葉が散らばっている。樹々は葉を落とし始めた。強風で枝ごともぎ取られているのもある。そこはかとなく寂しさを感ずる。もう一つ先の橋を越えるところまで歩きたいとの思いが消えて、Uターンしてしまう。忍び寄る薄闇に気おくれがする。

もう少ししたら夕方のプログラムを組み替えて午後一番にしたい。コロナ禍の先が見えてきたら、中断していた少し遠方へ冒険の一人歩きを再開したい。もちろん歩ける範囲のエリヤであるが。「都会の老仙人」にさえ夢を見させてくださる主をほめたたえます。

2021年08月13日