私のコーヒー物語その3  寄稿者 道草

コロナ禍の中、熱中症対策にも追われる昨日、今日である。感染者数は願うようには減らない。一方で頼みの綱であるワクチン接種がスピードアップしているのは近頃珍しく明るいニュースである。一日も早く日本中に行きわたりますように。そして、何よりも効果がありますようにと祈ります。

コーヒーの話で思い出したことがある。一時期、詩人の長田弘(2015年・75歳で死す)の作品を夢中になって読んだ。詩も詩文も快く胸に入った。からりと晴れた青空のような明るさを感じさせるものが多かった。作品集の数冊は今も書棚の一隅を飾ってくれている。その一つに「私の好きな孤独」がある。そこのコーヒーの話を時々思い出すのだ。

「伯父さん」と題したエッセーである。詩人の伯父さんは、コーヒーはブラックで一口すすって、それからミルクを入れることと、どうでもいいようなことだけれどねと付け足しながら言ったと、ある。さらに、「ひとは一人でコーヒー屋にいって一杯のコーヒーを飲む時間を一日に持たなければならない」。と言ったそうだ。これは詩人が忘れたくないこととして記している。

『私の好きな孤独』245頁は78篇のミニエッセーで成っているが、何年たっても思い出すのはこの伯父さんのひとことなのだ。私には当時も、今も、「一日に一回、一人でコーヒー屋さんに入る」なんて生活はほとんど皆無である。たかが一杯のコーヒーであるが、一日に一回、一人でコーヒー屋さんに行く、その時間、その費用、その意志はない。しかし、うなずきたいと強烈に思った。羨ましく思った。そうした生活にあこがれを抱いた。

しかし、そんなことできるなんて、詩人だからよ、自由に使える時間があるからよ、コーヒー代なんて10玉一つくらいしか思ってないからよ・・・。男性だからよ、とまで開き直ってみた。私はその一言と闘ったのである。

そのうちに、言葉の一つ一つがバラバラになり、お鍋の中でグツグツと煮込んだようになり、煮詰まってエッセンスだけになり、香りを放ちながら立ち上ってきた。詩人の伯父さんは人のあり方の真髄を簡単な一文で紹介したのだ。一日というページに挟み込む一片の付箋を教えたのだ。

他の言葉で言いかえれば【忙中閑あり】の【閑】をみつけ、有効活用することだと。一日24時間は誰にでも平等に与えられている。時間は川の水のように流れ続ける。しかしそれに流されっぱなしではいけない。どこかで敢えて自分なりの【閑】という堰を設けて一息つくのだ。深呼吸するのだ、背伸びして心身を調整することではないか。

2021年06月11日