病床の畏友を思う  寄稿者 草枕

このコロナ禍の中で、入院加療で苦渋の時を耐えてい
る畏友がおられる。患部が足なので病室に閉じ込めら
れている。かれこれ2か月になるがぜったい安静に近
い状態が続いている。
まだ現役、それも重責を担っておられる方である。さ
ぞ気の揉めることだろう。

みな、この一年余り、コロナで自粛を求められてきた
。きつくはないが緩い牢獄に閉じ込められたような気
もした。ステイホームとは軟禁とも言い換えられそう
だ。禁を破っても法的に罰せられることはないが、そ
の代わり感染するリスクが大きいから自粛せざるを得
ない。しかし、自分の五体に直接に苦痛はない。病院生活とは違う。

我が畏友は患部の苦痛に耐えかねて医療の門をたたきた。最新の治療を受けて快方に向かっているが、安静状態はさぞもどかしいだろう。もしこれが足ではなくて手であったら自宅でも療養できるだろう。家の中なら歩いても構わないだろう。しかし、足とは厄介ではないか。お水一杯飲みに行けないのだ。

さらに、だれもお見舞に行けないのだ。ご家族もノーである。個室におられるからよい環境と言えなくもないが、家族と会えれば遠慮なくしばらく共に過ごせる。話ができる。それが、だれとも会えないのだ。だれとも話せないのだ。医療のスタッフが定期的に訪れてくれるだろうがそれだけで満足できるわけがない。病室にはテレビはもちろん、本も、スマホも、もしかしたらパソコンも持って行かれただろうから、テレワークもしているかもしれない。しかし、日常ではない、全くの非日常だ。時間があっても心から自在に使えるだろうか。やるせなく、やりきれない思いではないだろうか。

私はと言えば、緊急事態宣言下なので自粛は意識して いるが、歩ける範囲で自由に動き回っている。一時間も二時間も一人歩きを楽しんでいる。その、歩きの最 中に、畏友の不自由さを思うのだ。辛さを思うのであ る。祈らずにはおられない。
桜が咲き始めた。爛漫の時に間に合うように病室から解放されますように、春宵の薄明かりの中で桜花の香を楽しめますように。神様はきっと畏友とそのご家族の祈りに応えて、春の喜びを与えられるに違いない。

2021年03月21日