3月10日の東京大空襲から76年    寄稿者 銀鈴

私の記憶というよりも、幾度となく聞かされた話がいつの間にか自分の記憶になったことかもしれないが、昭和20年の終戦前後のことを毎年の様に思い出す。3月10日のこともその断片である。当時私の家族は父の徴用先の社宅にいた。千葉県船橋の北部である。東京が大きな空襲に遭ったとのことで、翌日父は単身出かけて行った。父の本家や親類の様子を知るためであった。

父は下肢にゲートルという厚い包帯のようなものをぐるぐる巻き、戦闘帽を目深にかぶって出かけて行った。徒歩だった。こま切れの記憶に拠れば、向島区の本家は爆弾で吹き飛んだが、負傷者はなく全員無事だった。ところが深川の叔父夫妻は防空壕の中で亡くなっていた。どのように後始末をしたのかは聞いたことがない。その日わずか2時間の攻撃で10万人が死に、負傷者は15万人、罹災者は100万人に及んだという。主に木造家屋の密集している下町が的になった。

その日のことを教会の93歳になる姉妹が折に触れて話したことによると、姉妹は荒川の近く住んでおられたが、火の手が上がっていっせいに避難がはじまり、姉妹は布団を体に巻き付けて四つ木橋を渡ったと言っておられた。布団を巻き付けてかなりの距離をどのように歩いたのか、どうして助かったのか、周辺はどうだったのか、もっと詳しく聞いておけばよかったと、今ごろになって思う。姉妹はとっくに施設に入り、記憶も薄れ、今や会うこともできない。

その年の8月6日、9日には広島と長崎に原爆が投下され、15日についに日本は降伏した。戦争は終わったのである。戦争で得るものは何一つない。破壊と消失以外にない。みんな分かっているのに、なぜ戦争するのか。人災は無用である。自然災害と疫病との戦いだけで充分である。

『平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです』

2021年03月10日