一日がいとしい 寄稿者   銀鈴

月一回は必ず医院に行く。かかりつけ医という言葉が流布しだす前からである。自宅から5分ほどの小さな個人医院である。町の評判は様々だが私は先生を信頼して身柄を預けている。おおもとの生命の生殺与奪は神様の御心一つだが、いただいている心身の管理は私にも責任がある。いい加減なことはできない。神様に絶対的信頼を置きつつも、日常の体調はかかりつけ医に助けていただいている。薬局も裏隣りなので便利である。

ある時血圧に異常があった時から通院が始まった。20年にもなるだろうか。医者や薬に無縁であった若い時代が夢のようだ。これが人の辿る道なのかと思う。その、夢のような若い時代にも、無傷ではなかった。生死の境をさまよったことも何度があった。しかし今、何とか生き延びている。不思議なことだとつくづく思う。一方で、老いていく厳しさを痛切に味わっている。若い時にはまったく知らなかったことだ。どうあがいても現状維持すら困難である。ゆっくりと死に向かっているのだ。まざまざと実感するこの頃である。

人は必ず死ぬ。古今東西不死の人はいない。長寿の人はいるが死なない人はいない。笑ってしまいそうな明々白々な事実である。だから何だと言うのかと反論されそうだが、この現実は厳粛なものだ。軽々しく扱ってはならないと思う。限りある命なのだ。そして、いまや手の届くところに限界が見えている。それを知った今、私のすることはなにか。

パウロのように「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・・上に召してくださる神の栄冠を得るために…走っているのです」を、心がけている。そうすると、今日の一日が何んとも貴くいとしくなる。今日一日のいのちを与えてくださる神様をほめたたえずにはいられない。

ふと、思い当たる言葉がある。「人は生きたように死ぬ」と。これはどういうことなのだろうか。生と死は別々のものではなく、死は生の完成というのだろうか。この事についてはまた考えてみたい。

2022年01月23日