光り増す一日、一日    寄稿者  エルピス

今年もあと二か月です。ため息が出ます。日の過ぎ行くスピードにです。我ながら呆れますが、一年中同じことを言っているように思います。もう少しゆっくり進んでもらいたいと思っても、時の速さは遅らすことも、反対に早めることもできません。もともと時の流れの中にいるのですが、時の外に放り出され、置いてけぼりにされてしまったように感ずることもあります。あるいは時の巨大な力に圧倒され、てんてこ舞いし、まるで大波に巻き込まれたようにアップアップいている自分を見つけます。つまり、自分の生活と時の刻むリズムにずれがあるのです。

子どもの時は一日が長かった、一年が長かったけれど、大人になり、老いてくるとますます短くなるとよく聞きますが、感じ方の問題でしょう。神様の造られた時間は創造の時から一秒の狂いもないのでしょうから。時は意識しだしてからはなぜか早くなるように思います。幼かったころは明日こともあさってのことも、まして一年だ、二年だ、その先のことなど考えたことがあったでしょうか。学校生活が始まって、きちんと学期の期間があって、そこにはめ込まれていくと、夏休みなどが無性に待ち遠しくなったり、もう終わってしまったのかと、時の長短を感じるようになり、時の意識が強まったように思います。それでも、生涯の終わりを考えたことはありませんでした。

自分の生の終わりが視野に入ってくると、俄然時の意識が強烈になります。たとえ100歳までが可能だとしても、それは遠い遠いかなたではありません。そうなってくると、ひと月が早いのです。半年が早いのです。一年があっという間なのです。自分の持ち時間が削り取られていくように思えます。とっても惜しい気がします。いとしいとさえ思えます。それはこの世に執着するとか死ぬのが嫌だと言うこととは質的に違います。今の一日、一日が宝物なのです。一日が美しいのです。

今年もあと2か月。クリスマスの季節です。ほとんどの教会行事がクローズした2年でしたが、今年は何とかカムバックさせられるかもしれません。クリスマスでお楽しみの愛餐を囲むのは無理でしょうけれど。なによりもクリスマスの讃美歌を感染を気にしないで歌いたい。しかしこれもしばらく控えねばならないでしょうけれど。ともあれ、クリスマスシーズンがやってきます。この二か月間の一日、一日はいっそう輝くことでしょう。神の時が満ちて、闇を破る光であるイエス様が降誕なさったのですから。

2022年11月01日