義の訓練   寄稿者 青梅

「わかっちゃいるけど・やめられない」。
昔流行した植木等のスーダラ節ではないが、頭のなかではわかっているのだが、心がついて行かないときがある。
つい先日もプーチン大統領がウクライナ東・南部4州を一方的に併合宣言し、対してウクライナはNATO加盟申請に動いたとのニュースを聞いたとき、ひとつ間違えば核戦争ではないか、思わず「彼らは何をしているのかわからないのだ」と呟いてしまった。

その呟きにハッとさせられたのだ。以前ブログに書いたが、この言葉はイエス様が十字架上で死ぬときに言われたお言葉で、イエス様を十字架につけた人をおゆるしになった愛と憐れみに満ちたお言葉であること、それに比べ私の言葉は他人を責め、怒りと憤りから出た言葉で、イエス様とは真逆にある者の言葉とわかっているのだ。にもかかわらず、また呟いてしまったのである。
と、パウロ先生の「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」の言葉を思い出した。

さっそく、聖書で、その箇所を開いてみる。ローマ7:19だった。
さらに、読み進めると「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)」とある。
はて、聖書のなかの「みじめな私は」だれだろうと気になった。
はたして、パウロ先生ご自身のことだろうか、いやいや、そんなことはない「律法による義についてならば非難されるところのない者(ピリピ3:6)」、「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。(使徒23:1)」と自信タップリに語るパウロ先生のお言葉には見えない、すると・・・・、思わず「私だ」と叫んでしまう。
私だと思ったら、聖書が急に身近に思えるから不思議である。
さらに、読み進めると「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ8:1-2)」の聖句が与えられた。
なんだか、ホッとした。

聖書は自分の愚かさ、情けなさを気づかしてくださる書である。と、同時にそんな、愚かな自分を憐れみ、励まし、そして支えてくださる言葉がつまっている書でもあると思う。
そして、パウロ先生は「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」と語っておられるのだ。
まさに、私にとって、ウクライナ侵攻の報道を聞くときは、義の訓練のときだと思った。

2022年10月07日