繋がる命   寄稿者  旅女

礼拝後、朗報が響き、会堂は歓声に満たされた。「T家に第二子が誕生しました。今度は女の子です。母子ともにお元気です。近々お会いできるでしょう。主の祝福をお祈りしましょう」。笑顔がはじけ、よかったね!とあちらこちらで喜びの会話が始まる。コロナ禍の鬱屈が解消する一瞬であった。12月出産予定の妊婦さんも聞いていた。会堂を所かまわず這い這いする我が子を追いかける新米ママも聞いていた。走り回る2歳ギャング児に手を焼く父親も聞いていた。我が教会はこのところ久しぶりにベビーブームである。いのち誕生の知らせは居合わせた一人一人に感動を与える。光を見せる。希望が生まれ、不思議にも元気が出る。

一方で、もの悲しい知らせもあった。「Nさんはようやく危機を脱して一般病棟に移りましたが、まだ食事は摂れず、予断を許しません。ご家族の面会も厳しい制限があります。回復されてまたともに礼拝できるようにお祈りしましょう」。あちこちで小さなため息が漏れる。何十年と、ともに教会生活に励んできた友である、老いるとは悲しいものだ。

川辺を彩った巨大な向日葵もカンナも精気を失ってきた。早くも黄ばんだ桜樹の葉が川風に吹かれて飛んでくる。水際の葦も伸びきった葉先が折れてきている。炎天下に蛮声を張り上げていた蝉が道端に転がっている。蝉の地上の命はいかにも短い。

「生老病死」はおよそ生きとし生けるものに定められた天の法則である。蟻一匹すらこのルールから逃れられないのだ。実に厳粛なことである。とはいえ、こんなことは古今東西、いにしえの昔から言われてきたこと。今更のことではない。一人の人の命が尽きても、すぐそばから新しい命が誕生する。プラス、マイナス
はかわらない。いやむしろ、人に限っては人口減少と言われるが、生物は繁殖繫栄しているのではないか。

地面の下では来年のセミたちが育っている。ヒマワリはびっしりと種を付けている。これから裸木になる桜樹も、来年の春には今年以上に絢爛たる花を咲かせる。自然界は活発である。命は繋がっていく。神様の視点はどこに注がれているのだろう。一人の人の生き死ににも愛を注いで係わってくださるが、天地宇宙万物ことごとくが視界の中にあることは事実だ。αであり、ωである主は連綿と命を繋いでくださっていくのだ。私の始まりも終わりも命を繋ぐ主のストーリーの中にある。何という平安!なんという喜び!なんという快感であろうか。主に感謝します!

2022年08月24日