89歳     寄稿者 ママレード 

同じ日に二つの電話があった。共に89歳の知人からである。

一人は職場で先輩だった生涯独身の方。若いころ洗礼を受け、同じ教会でクリスチャン生活を送っている。今まで5人の牧師にお世話になっているとか、どの時も「私が好きなのは教会と絵本と帽子」が口癖で、奉仕も欠かさない。
脳梗塞で倒れた後は福祉の世話も受けて、何でも一人で決め一人でできることをやっている。好奇心旺盛で、話題には事欠かない。
その日の電話は特に用事ということではなく、私が出した手紙へのお礼だった。休日の翌日はたくさん郵便物が来てうれしいとのこと、きっと彼女も頻繁に出していることだろう。

よる電話がかかってきたのは、同じように独り暮らしのボランティアの先輩だ。若いころから音訳ボランティアをし、後輩を育ててきた。若いときから無教会のクリスチャンで、いまだにその集会にタクシーで通っているという。長いこと音訳をしていたので言語明晰、話もしっかりしている。最近白内障の手術をしたが、今一人で家にいる。
音訳方法がテープからパソコンに代わったので苦労しているといっていた。持ち前の努力で何とかパソコン入力にも慣れたが、もうそろそろ引退したいという。パソコン入力に私も苦労しているので気持ちはよくわかった。「私何の役にも立たないから」と何度も言うが、
私たちにとってその方がいるだけで大きな励ましだ。

自分ではまだ記憶に自信があると思っていたが、今日失敗した。
昔の子ども讃美歌に「うるわしき朝も…」というのがある。その話が出たとき、わたしは
「3番は『祈りの家に集まるときは…』がありますね」といって口ずさんだ。
「あら、それメロディが違わないかしら」といわれた。確かに私が間違っていた。この子ども讃美歌は「優しい神は天にいまして」だった。
知ったかぶりして間違えた。よく知っている子ども讃美歌なのに、どうしたことだろう。

89歳になっても私はあの二人の先輩たちのように自立していられるだろうか。他人の援助を感謝して受け、一人でいることも受け入れている。そして明るい。

2022年08月19日