ある解放  寄稿者 銀鈴

毎月初めにかかりつけ医に行く。ひとつき分の薬をいただくためである。近所の個人病院。最近の体調について簡単な問答がある。血圧測定がある。時に血液検査や区の健康診断の結果の説明を受ける。今回は7月に内臓のエコー検査したその説明があった。医師はファイルから数枚の写真を取り出し、じっと見入っていたが、「K臓もG臓もどこにも問題がない。もう薬は要らないでしょう。検査は続けるとして、当分薬なしで様子を見ましょう」。と、決心したように断言した。いきなりだったのでびっくりした。実はもう18年も服用し続けてきたのだ。しかしここ10年以上、検査数値は安定していた。が、医師は薬のおかげだから飲み続けるようにといわれた。それなら反抗もできないと、半ばあきらめ、そのうち服用は日課の一つになり習慣なってしまった。一生飲み続けるのだろうと思っていた。

突然、やめましょうと言われても心の準備がない。一方的に別れを宣言された気がした。愛着がある、強いて言えば未練がある。思えばおかしな感情である。医師に「ありがとうございます」と、お礼を言っただろうか。茫然としていたのは間違いない。無礼な患者である。医院の外に出て初めて、「主よ、感謝します」と天を仰いだ。何と不信仰だろうか。大急ぎで悔い改めと感謝の祈りをささげた。急に心が開いて喜びが噴き出し、一瞬、体が軽くなって宙に浮くようだった。この歳になって、積年の持病から解放宣言されたのである。こんなことってあるだろうか!

医師はそのまま黙って薬を出していてもよかったのだ。老いているのだから、いつ、重くなるかもわからないではないか。それなのにたったひとつのよすがである薬を不要という。どうなっているのだろうと、肉的な不安もないわけではない。しかし私は思い直した。医師に決断させたのは神様に違いないと。そのように固く信じた。私の命は御手の中にある。

2022年08月04日