アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神・・・ 寄稿者 エルピス

いつ頃だったか、知人の「自分史」出版に当たって、ささやかなお手伝いをしたことがあった。知人は本のタイトルを「主は生きておられる」に決めた。いつくか候補があったのだが、行きつくところはそれしかないと、強い確信を持ってうれしそうに名付けた。そりゃあ、そうに違いない、まさに正解だけど、直球すぎやしないかしら・・・、私だったら何と命名するだろうと考え込んだことがあった。

つい先日、遠方の友人が「ようやくこの年になって自分史をまとめました」と一冊送ってくださった。開いてみればタイトルはなんと「主は生きておられる」ではないか!ええっ、これも、う~~~ん。また、しばらく考え込んでしまったが、そうか、彼女も、ご自分の信仰人生を総括して、やはりここに行きついたかと、前回の知人と重ね合わせ、双子のような2冊を並べてしみじみ見入った。

御国へ行くとき、知人も旧友も神様への唯一の手土産として、「主は生きておられる」を持参し、差し出すだろう。神の御座のそばにはすでに同名の書が山を成して積まれているかもしれない。しかし主は目を細めて微笑みながら両手を差し出して受け取ってくださるだろう。そんな光景が浮かんだ。

旧約聖書列王記第一に、偉大な預言者エリヤの活動が記されているが彼の第一声は「わたしが仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」だった。時の権力者アハブ王に言い放った言葉である。彼は数々の奇跡を行いながら生きておられる主を証しした。

イエス様は宣教の途上で、頑迷な宗教指導者に向かって「神はモーセに向かって『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』といわれたのを知らないのか。主は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と説教された。つまり、神は観念の神ではなく信じずる者の只中で活動する、生きている神である。主は生きておられると、力と権威をもって教えられたのだ。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、そのまま生き続け働き続け、ペテロの神、パウロの神になり、今は私の神なのだ。私もエリヤのように「私の仕えている神は生きておられる」と断言し公言する。私の背に乗る小さな人生リュックは生きておられる主の愛とあわれみではち切れそうである。私も主への捧げものとしての一冊を作るとしたら「主は生きておられる」と銘打つかもしれない。

2022年07月30日