「しかし、主よ」    寄稿者 青梅

先ごろ、ウクライナ復興支援の国際会議がスイスで開かれたことをインターネットのニュースで知った。

なかでも、開催地スイスの大統領が「われわれの取り組みは、戦争が続いている中でも、戦後への準備を行うものとなった」との閉会宣言にビックリした。復興を考える前にまずすべきことは戦争をやめることだと思っていたからである。
さらに、102兆円という日本の国家予算とおなじくらいの復興費用が必要だと知った、「どこから、そのような巨額な資金が湧いてくるのだろうか・・・」と呟いてしまう。

そんなときである。「しかし、主よ」と言うことばが迫ってきた。
詩篇31篇14節「しかし主よ 私はあなたに信頼します。私は告白します。あなたこそ私の神です。」の御言葉だと知る。

苦しみのなか、悲しみのなか、人生のいろいろな時、「しかし、主よ」のあとに「あなたこそ私の神さまです」とつづくダビデの信仰告白、まさに一切を主に委ねるダビデの信仰が迫ってきたのである。

同時に、復興ができない言い訳やグチ、はてにその責任が神さまにあるような不信仰なことばがつづいている自分に気づくときでもあった。

確かに、復興は簡単ではない。
だが、いま必要なことは「できない言い訳」でも「言い分」でもない、ダビデの信仰だと思った。

見える現実がいかに絶望的であっても、ただおびえるのでなく、なおそこで「しかし主よ」と祈っていける世界に生かされていることに、あらためて感謝を覚えるときでもあった。 

2022年07月23日