何を残すか         寄稿者 色えんぴつ 

人は長生きするようになった今世紀、様々な生き方がある。
Kさんがその長い一生を終えたのは先週のことだ。

特別何か業績を上げたわけでもなく、多くの人にあがめられたわけでもない。ただ神様がお決めになった長い日々を静かに歩んだ。
老人ホームに入ったのは九十代後半過ぎ。そのことを恨むわけでもなく、自宅にいる時と変わらず過ごしていた。

毎晩夕食が終わり一息つくと、やがて「Kさんのお祈りが始まった」と施設の方たちは思う。就寝前の日課だ。名前を挙げてとりなしの祈りをすることは、大事な一日の最後の習わしである。お世話する方はそれで彼女が元気であることを知る。
教会では何度か数人で訪問して交わりの時を持った。お見舞いだから励まそうとする私たちに「教会のことを祈っていますよ」という。そう、Kさんは祈りの人なのだ。そして言葉だけでなく実際祈っていたのだ。

コロナのため家族と施設だけでお別れをした。クリスチャンであることを知っていた施設は讃美歌を用意し、共に讃美してくれたという。
次の日曜日、私たちは礼拝の後、短い祈りの時を持った。お別れ会で賛美した「いつくしみ深き」を歌い、牧師と何人かの姉妹が祈った。

Kさんのご長女と一緒に教会を出た。「何も残さなかったけど最後までクリスチャンでいたこと、そのことを残してくれた」との言葉。
内村鑑三の「後世への最大遺物」がふとよぎった。内村が言いたかったのはこういう生き方ではないだろうか。

2022年06月07日