過ぎ行く日の中で   寄稿者  草枕

緑風満ち満ちる5月が終わる。真夏以上に高温の日もあれば暖房がほしいような夜もあった。絵に描いたようなさつき晴れの青空を楽しんだ。わざわざ樹木の下をくぐって、陽に踊る若葉を楽しんだ。その麗しの5月も終わる。

5月は5回日曜日があって31日まであって、存在感の大きい月である。いつもの月よりゆっくりとたっぷりと歩み、足音にも力があったと思う。そうなのだ、思う、なのだ。私個人の思いなのだ。ほかの人はまったく違って感じたかもしれない。

私はこの5月に満足している。充実した月であった。神様の恵みに満ちていたと喜んでいる。そう言えるのは計画していたことが実現できたからかもしれない。できた!やり遂げた!大仕事が一つ進んだ!Halleluiah!だったからだろう。

事が思うように進まず、それどころか、思ってもみない意に反したことが重なると、日がばかりが飛ぶように過ぎてしまったとむなしくなる。神様にも不平を抱いたりして、身勝手なものである。

神さまは時を造られ人間に管理するようにと預けてくださった。私たちはそれをどのように受け止め、過ごすたらいいのだろう。神様のお考えのようにできたらいいと思う。

それにしても、人生稼業を○○年も続けていると、過ぎし日は夢のまた夢、飛ぶがごとくであった。主のおそばに帰る日こそ、我が生涯の最高の日、凱旋の時だが、そこまでの時をいかに過ごすかが当面の最大課題であろう。無為に過ごしたと嘆くことなく、有為にできたと驕ることなく、主の喜ぶ使い方をもっともっと真剣に考え追求したいと願う。5月の最後の日の只中でしきりにそう思う。

ウクライナの戦禍の中にいる方々は一日をどれほど長く辛く感じているだろうか、一日も早く青空の下で背伸びできる日が来ることを、切に希求します。蛇足のように一言添えるだけの我が非情さを恥じつつ。

2022年05月31日