デジタルとアナログの間で 寄稿者 道草

ずっと係わっている組織が定期的に発行している機関誌の作成に携わっている。コロナ禍も2年半になるだろうか、リアルの集会は休会してきたが、機関誌発行だけはほそぼそながら続けている。会員が寄稿してくる記事を決まったスタイルに編集し、印刷し、冊子にして郵送するのだ。最後はペーパー化なのである。時代に逆らうようなアナログ的作業である。

世の中は急速にペーパーレスに突き進んでいる。さる有名な自動車会社が、今後いっさいのカタログをペーパーでは作らないと決めたそうだ。カタログは商品の看板とも言える。自動車はさておき、すてきなカタログは見るだけで楽しい。それを手にして頁を繰ることがなくなるとはなんと寂しいことだろう。画面で見れば十分だ、紙なんて邪魔だと言われると一概に反論もできないが。廃棄する紙類も多いことは事実だ。資源の無駄使いではないといわれるとうなだれてしまう。

アナログ礼賛派では決してない。デジタルの便利さを喜び楽しむことも多少はできるようになってきている。例えば機関誌編集も、原稿募集案内からメールを使う。Lineを使う。寄稿者はデータで送ってくる。もちろん紙原稿もあるが。集まった原稿はクラウドに保管し、係わる人がいつでも手を伸ばせる。お互いに自分の画面で作業ができる。すぐに反映される。この便利さはたとえようがない。スピーディーにスマートに事は進んでいき、かつての何分の一の速さで完成に至るのだ。見事なものである。その波に乗って、なんて便利でしょう!と歓声を上げ感謝する。笑顔も浮かべる。

しかし、しかし・・・私はふと感傷的になるのである、その間、直接にお互いの生の音声を聞くことはない。「わたしってロボットみたい、あちらもロボットみたい」だと。ロボット同士が機械的に動いているような気がしてくるのだ。

しかし・・・、またも逆接の接続詞が続くが、こうした考え方自体がアナログ的なのだろう。私の思いはいったいどこに落ち着くのだろう。どこに結論があるのだろう。いや、結論なんてないのだ。無理に決めつけて落ちつくところを見つけたって、それは自己満足にすぎない。そこに浸り切ったらそれはもうアナログを通り越して化石人間といえよう。

アナログで育った世代がデジタルの大波に呑み込まれて疎外感を味わうこともあるが、デジタルに少しでも追いつきたいと大いにもがき、あたふたとする。これもいいではないか、楽しいではないか。これを「結」とするほかはない。思えば、文章作法の「起承転結」に囚われるもアナログ人間なのかもしれない。

2022年05月18日