英雄とはだれのこと?    寄稿者 草枕

今やコロナ禍以上にいっときも頭から離れないのはウクライナの戦況である。おそらく世界中の目が瞬きも忘れて、刻々と送られてくるニュースを見つめていることだろう。伝達手段がここまで発達してくると、ほとんどリアルタイムで知ることができる。そこには本当の事実ばかりでなくフェイクも紛れ込んでいるらしいが。

学校で教えられ教科書で知ってきた世界史、日本史の英雄たちを思い出している。古代ローマのユリウス・カエサル、近世ではナポレオン・ボナパルド、織田信長、西郷隆盛などなど。彼らはどうして英雄と言われるのか、戦争が上手で、戦争に勝ったからだ。戦争とは、他の地域や国を武力で攻撃し、相手国の多くの兵士、一般人の命を奪い、町を破壊し、自分のものにしてしまう恐ろしい行為だ。その先頭に立って、残虐の限りを尽くして勝利者となったのが英雄なのだ。

今、ウクライナの情勢を見ていて、あの非道を指図している暴君が、戦勝した暁には英雄と呼ばれるのだろうか。歴史はそれを許すのだろうか。決してそんなことはないと信じる。

彼らの末路はどうであったろうか。上記の4名はことごとく非業の死を遂げている。カエサルの最後は有名だ。腹心に裏切られ「ブルータス、お前もか」と叫びながら刃に倒れた。信長に反旗を翻した明智光秀の「敵は本能寺にあり」も有名だ。近くは、ヒトラーもスターリンも一時期は英雄だった。しかし今は誰一人として栄誉を与える人はいない。

話しが曲がりくねるが、凱旋門、凱旋将軍という言葉がある。凱旋門と言えばパリのエトワール凱旋門は世界一の観光スポットと言える。ナポレオンが造らせたそうだが、彼はその門を潜れなかった。凱旋門はもともとローマ帝国から由来している。市内のコロッセオの近くにあるのも観光の名所である。私も潜った。

戦争に勝った将軍が、きらびやかに着飾って四頭立ての戦車に乗ってこの門から市内に入城するのだ。沿道は歓呼の群衆で埋め尽くされる。その行列の内容を読んだことがある。映像も見たことがある。戦いに敗れた国の高官たち、兵士、捕虜が鎖につながれて延々と曳かれていく。すぐに処刑される人たちもいる。戦利品の列(強奪、略奪品だろう)が行く。これが戦争の実態なのだ。おぞましさも極まれりではないか。そのパレードを、今、かの暴君はしたくてたまらないのだ。戦争は2千年の昔からちっとも変わらない。むしろ使う兵器が発達しているだけに悲劇は大きい。

「歴史」を本のタイトルだけを見るように眺める時、戦争の勝者たちの華々しい姿を「英雄」として並べてしまう。かのベートーベンでさえナポレオンを讃えて「英雄交響曲」を作った。

人間には、勝者にあこがれる心理があるのだ。「英雄」は人が生み出した悲しい幻像ではないだろうか。人生という戦場をあえぎながらさまよう私たちの、勝利への切ない願望が幾人かの有名人に投影されるのだろう。しかし、なにを「勝利」とするのかが問題だ。勝利に対する価値観である。その人の価値観がその人の「英雄」を作りだす。ある人はマザー・テレサを、ある人はキング牧師を心の英雄とするかもしれない。少なくとも他国を侵略する猛々しい暴徒を英雄としてはならない。

真の英雄とはだれか。私にとって英雄とはだれか、何をした人か。どのような人生を歩いた人か。その人の生き方、死に方を模範とする人が私にとっての英雄だ。キリスト者の私には確かな「英雄」がいる。慕わしき「英雄」が心のうちに住んでおられる。

2022年04月29日