御心ならば   寄稿者 ママレード

会で発言中、人の名前が出てこなかった。みんなが見ている中で、その方の名前がとっさに出てこない、恥ずかしかった。

元来そういうことは得意だと思っていた。出てこないのよ名前が、という人に対し、私もそうだと軽く受け流してきた。誰もが高齢になると記憶があいまいになったり、人の名前が出なくなったりしてくる。ましてや学校時代に倣った歴史の年代などは、まるで遠い外国のようなものである。

東大教授だった人が若年性アルツハイマーになったという本がこの春出版され、ネットでも取り上げられている。講談社から出されたその本ははや重版されているそうだ。誰もが関心を持つテーマである。

読んでみるとクリスチャンの証である。彼は脳医学の専門家であった。発病により、定年前に東大教授を退職することとなった。五十代で発病、受け入れることができないその苦しみの中で家族は神の御心を探っていく。私はこの本をレントの時に読んだので、「神様なぜこの杯をお与えになったのですか」と問うイエス様のことばと重なって響いてきた。

それが神様の御心なら従いましょうという信仰は何年にもわたって鍛えられていった。認知症だから何もできないというのではなく、深められることがあるのだという指摘は大きな励ましだった。

著者である奥様は最後まで夫を尊敬し、支えている。これこそ私の理想である。共に生きることは厳しいこともあるが、支えている人が支えられていることでもあるのだ。「こころの友」5月号でも紹介されている。

2022年04月21日