十字架上の主の下で   寄稿者  緑風

受難週の日々を過ごしている。キリスト者にとってこの週ほど心探られ、心砕かれ、切ない時はない。

イエス様は同胞ユダヤ人に捕らえられ、ローマ帝国によって処刑された。だから主イエスの十字架は「我が罪のためなり」と受け入れる人は少なく、主に感謝する人は少数である。信仰の問題だからだろうか。真理は隠れたところにある。真理は時に肉眼では見えない。真理を見る目、知る心、受け入れる魂をいただいた者は幸いであると確信する。

主イエスが十字架につけられた時、すぐそばにいたのはごくわずかな人たちだった。主イエスを救国のメシヤだともてはやした群衆は去り、イエス様と三年半も寝食を共にした弟子たちも逃げ、主イエスが徹夜の祈りをして選び、極みまで愛した12弟子さえ見捨てた。十字架の足元近くに最後までいたのは母マリヤとわずかな女性たち、弟子ではヨハネだけだったと聖書から推察する。彼らには、十字架上からしたたり落ちるイエス様の血潮が降りかかっていただろう。

2000年の歳月を経て、私は今、ペーパーに編集された聖書の窓から光景を読み、乏しい想像力を奮い立たせて現場を思い描くが、どれほどのことがわかるだろう。何もわかってはいないだろう。申し訳ない・・・・・。にもかかわらず、聖霊は私にイエス様の愛を知らせてくださった。罪の赦しを宣言してくださった。「主の苦しみは我が罪のためなり」と告白できるようになった。

せめて殉難週のこの日々は、タイムスリップしてゴルゴタの丘に登り、主の十字架の足元にひれ伏したい。「私はキリストとともに十字架につけられた」と言ったパウロのように。

2022年04月14日