詩篇119篇 音読  寄稿者  付箋

近年、個人の聖書通読を音読で進めている。すべてではないが、できるだけ努めている。特に、詩篇は心して音読している。音読というより、「我が祈り」としての詩篇朗読である。

詩篇119篇は詩篇150篇の内でいちばん長い。176節もある。ヘブル語のアルファベットに従って22の段落に分けられ、一つは8節からできている。日本語ではわからないが言葉遊びの要素も盛り込まれ、技巧を凝らしているそうだ。良質の文学作品の香りを放っている。 

今年も新年からスタートした聖書通読が「詩篇」まで進んできた。「我が祈り」として音読した。自分の状況や心境を思いつつ、また、特に今はウクライナ戦争のこと、コロナのことへの願いを、詩篇の言葉に託して祈りとして音読した。

不謹慎と言われそうだが、時計をそばに置いて、時間を計ってみた。初めての時は15分かかったが10分の時もあり、9分の時もあり、今年は11分だった。息が続かなくなり、息継ぎが多くなった。その分時間がかかる。老いを感じた。

ある時友人3人と輪読した。20分かかった。これも不謹慎だろうけど、読み終わったときは、爽快になり達成感の喜びを味わった。そもそも聖書は本を目で読むものではなく、一般人は朗読されるのをじっと聞いていたと学んだ。耳から体の中へしみこませたのだ。純粋に信仰によって「神の言葉」として受け入れたのだ。

机上に置かれた立派な「本」としての聖書に目を走らせるのはいかにも美しいが、声を詰まらせ、汗をかきながら音読するのも時にいいものだ。もちろん神様はどちらをも喜んでくださるだろう。スタイルではない。「人はうわべを見るが、主は心を見る」。霊とまことをもって礼拝するように聖書に親しみたい。

『初めにことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった』
ヨハネ1・1

2022年03月16日