「支え合う」-忘れてはならない。東日本大震災-    寄稿者 野のすみれ

2011年10月19日、塩原発12時35分の新幹線に乗車仙台駅に着いたのは13時50分であった。私たち4人は急いで改札口を出て窓口に向かった。「被災地を見たいんですがどこに行ったらいいんでしょう」 と聞いた。仙台空港の周辺、名取市あたりに行けたら…と皆が言うが私は交通の便を考えると、松島方面がいいのではと思っていた。駅員も「松島方面の海岸淵が被害にあっている」と教えてくれた。10分後に発車する電車があると言うことで小走りに仙石線乗り場に向かった。

私たちとは傾聴ボランティアをやっている仲間である。今回親睦をかねて一泊旅行を計画した。翌日ホテルを出たところで「仙台の被災地に行く」とKさんが突然言い出した。前々から考えていたようだ。7名中私たち3人が便乗することになった。
松島駅に着いたのは14時半、閑散とした駅で外は曇り空、寒々しさを感じた。それは「これからどうしよう」 という不安があったか。仙台駅では松島駅からバスが出るということであったが「走ってない」と駅員に言われ(後でわかったことだが実際は走っていた)とても歩いてまわることが出来ない。どうしたものかと思案していたら。「タクシーでまわりましょう」ということになり、駅前に列をなして止まっているタクシーの運転手にKさんが聞いてくれた。「半日コースで9,000円ですって、東松島方面を1時間半でまわってくれるって、どうする」時間もないこともあってそうすることにした。

駅を背にして走る町中の被害はほとんどなく、10分ほど走ると道路より低くなっている右側の海辺にはまだ瓦礫が残っており、左側の住宅地の家は壊れていないので水に浸からなかったのかと問うたら、道路を乗り越えて水が流れ込んできたという。
間もなく行くと「向こうに見える水面は、緑地帯だったのだが、地震で地盤沈下になって沼みたいになっているんですよ」と運転手が話す方向を見ると、広い範囲で地面が下がっていることが解る。

東松島地方を案内され、特に野蒜地方はほとんど家が津波に持っていかれ、土台だけが残っているのを見て(あ、家があったんだなあ)と思う程どこまでも続く広い範囲だ。何もない平地の所々に船や自動車が乗り上げているのが見える。それでも頑丈に組み立てられた家は残っていたが、それらはみな一階だけが波につき破られ、流されてきた色々な物がまとわりつき、住める状態ではない。電柱は斜めに倒れつつあり、線路は土砂で埋まり、所々しか姿を見せてない。

「海が見えないほどの松林だった」 と説明の方に目をやれば、間引きされたように根ごと津波に流されたとのこと。あの太い松が…と思うと今更ながら津波の威力の恐ろしさを感じる。電気も水道も通っていない町は、かつて漁業が盛んで海水浴の民宿が沢山あり、住宅地が続いていたという土地は跡形もなくなっていた。「この辺は家が沢山建っていた道路が狭く曲がりくねっていて車を走らせるのが結構大変だった」と話す運転手さんの言葉が空しく心に響いた。

東日本大震災後7か月たっているのに、最近の出来事のような爪痕に「こんなに広い範囲だったとは想像できなかった」「TVで見ているのとは大違いね」「来てみないと実感できない位、すごいわ」「亡くなった人はどんな思いだったかしら」 と私たちはため息交じりに、それぞれ独り言のように言った。その眼は涙でぬれていた。私はとめどなく流れる涙を何回も拭った。堤防の工事をしている人は見かけたが、人っ子一人いない元住宅地に数匹のネコが悲しげに私たちを見つめていた。正に廃地となったこの状態が、岩手の海岸から東北地方全体に続いているのかと思うと目眩を感じた。

(ああ、神様、この様子をどう思われますか、神様の意図は、何なのでしょうか)
私たちに出来ることは「やはり募金しかないよね」 と誰彼となく言い、頷いた。

このように訪ねることは被害者に対して「失礼ではないか」と思いをぶつけてみると「良く来て下さいました。私たちはもっと多くの人に来てもらって、現実の様子を知ってほしいと思っているので、大歓迎です」の言葉に温かさを感じ、この地が高台に移ることが地元出身の有力者によって、決定したことはかすかな希望の光が差しつつあるように思えた。「思い切って訪ねてよかったね」一同胸をなで下ろした。

「帰ったら皆に伝えますのでお元気でいてくださいね」と私たちは運転手にお礼を言った。
「そう、私たちには伝える使命があるのだ」と誰もが思っていた。発車まで15分しかない、急ぎつつ夕食用のおにぎりとサンドイッチ、仙台土産を買い、新幹線に飛び乗った。
大宮に着いたのは19時半であった。

2022年03月05日