すきま富士


****************************亀井正之


  **ここは東京杉並の端っこである。いつも通っている図書館に行く途中にゴルフの練習場がある。台風一過珍しく良く晴れたその日、 そのゴルフ練習場の網に向かってカメラを構えている人がいた。

**この練習場は、高台にあってよく見ると網に囲まれた向こうは、結構遠くまで見渡すことができた。といっても高い建物などが見えるだけであったが。 サラリーマン風のその人は何にカメラを向けているのかわからなかった。私は立ち止まってその人に聞いてみた。

**するとその答えはとても意外なものであった。「富士山を撮っているんです」とちょっと照れながらその人は言った。「えっ、どこに…?」 私は目を凝らして見たがとても肉眼では見えない。
「あの向こう、あの遠くに見えるビルの間に富士山が見えるんです」

**最近遠くからそれも大きなビルなどの隙間から見える富士山を超望遠で写真を撮るのが流行しているのだそうで、それを「すきま富士」というのだそうだ。

**チクリと胸が痛んだ。私は天地をお創りになった偉大な神をすきま富士ほどに発見しようとしているだろうか。
『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。』(箴言3:6)  









****************************安東奈穂美


**開業間もない北陸新幹線、教会の鉄道ファンの仲間と行く日帰りの旅である。

**停車駅の中に「糸魚川駅」がある。20年以上前に亡くなった父の郷里である。長野を過ぎ、次第にその駅が近づいてくると子供のように期待が高まった。

**座席を離れ、デッキから車外を眺める。少し前までは曇っていたが、急に雪の残った山並みが見えた。(山だ!)心の中で叫んだ。

**父を育んだ空気をつくった山々。いつまでも離れたくない気持ちだった。もう地上では会えない、穏やかで優しかった父に再び会えた気がした。ここに来れば、 いつでも父を感じられるのだと思った。

**大きな山を見ると、心には懐かしさと共に、思慕の情や憧憬の気持ちが広がる。同時に、何か厳かなものも感じるのである。自分の意識を越えたところで創造主を感じ、 畏敬の念を抱くことの表れかもしれない。

**聖書の一節が思い浮かぶ。

*****私は山に向かって目をあげる。
*****私の助けは、どこから来るのだろうか。
*****私の助けは、天地を造られた主から来る。

**父の故郷に続く山々は、今日も雄大にそびえ立っているだろう。

 









****************************荒井 文


**『朝はどこから来るかしら/あの山越えて、野を越えて/光りの国から来るかしら/おはよう/おはよう』

**戦後間もない頃ですが、私が小学生のとき毎日のようにラジオからこの歌が聞こえてきました。私は、この歌から自然のすべてのことを考えるようになりました。

**3年生の時、群馬県草津町に引っ越し、はじめて登山を体験しました。白根山の頂上から見た自然の美しさ、連山のすばらしさを感じ、こんな美しい風景を誰がいつ、 どうやって創ったのかを知りたくなりました。

**高校生になり、キリスト教主義の学校に入学。はじめて神様の言葉といわれる聖書に出会ったのでした。聖書の創世記には、この世のすべてのもの、人間をはじめ、 自然のすべてを創られたのは神様だと記されていました。ところが、あんなに知りたかったのに信じられませんでした。

**数年後に、どんなに頭が良くて器用でも、天地創造の業は人間にはできないと思い、神様のいることを信じました。

「私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩編121:1〜2) 














   
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