生活水路


****************************長谷川和子


  **家の南側に土地すれすれに50センチ幅の浅い小川が流れていた。

**秋になると近所の人達と共に母は川の前に筵を敷き正座して漬菜(野沢菜)を洗う。

**雪国の秋の水は冷たく手を赤くしながら洗った数株を束にして藁で縛り川に渡した板の上に茎を下に立て水切りをする。何束も「洗い菜」が出来上がっていく。 足腰は冷え、手の感覚もなくなる11月初旬の気温の中、辛いだろうに、話声と笑い声に包まれていたのは、女衆の親睦の場であったのかもしれない。

**水が完全に切れた漬菜は大きな樽に塩をたっぷりかけて漬け込む。緑色の菜がやがて飴色に変化、冬の保存食となるのである。

**家の北側の川は3メートル幅の底深く水流の勢いに恐怖さえ感じた。村中の道路の脇には必ず小川が流れていた。

**関東に住むようになって故郷の川は、水田のための水路であったと気づかされた。

**出エジプト記2:5に「パロの娘が身を洗おうと川に降りてきた」とあるように畑で取れた野菜の洗い場であり洗濯物の濯ぎの場であった。

**静かな水音は安らぎを与え、泥鰌掬いや川遊びの郷愁へと誘ってくれる。 









***********************************長山知子


**私の生まれ育った所は静岡県三島市である。

**JR東海道線三島駅南口から歩いて5分の所に、桜川という川がある。源泉は富士の雪どけ水の湧き水で、川底の石まで見えるきれいな川である。 川沿いには柳が植えられてあり、文人のこの川にちなんだ石碑があって、観光客がその川べりを楽しそうに散策している。

**今から50年前の1966年に、この川べりのアパートに結婚と同時に父母が住み始めた。28歳の2人がキリストを伝えるために開拓伝道を始めたのである。 川べりにはそれぞれの家に行けるように専用の橋がかかっている。アパートにも専用の橋があって出入りした。

**なぜ、2人が三島で開拓伝道を始めたのか。父が聖契神学校を卒業して赴任してきた所が三島だったのだ。しかし、そこで宣教師のグーエス先生と文化のくい 違いから一年足らずで独立することになったのである。

**見合い結婚をした母は、この川べりの一間(六畳と台所と玄関三畳)のアパートにさぞ驚いただろう。 しかし、夏の暑さ、扇風機もなかった2人にとって、 夏の夜は川に出て夕涼みできたことはいい思い出であろう。

**あれから50年たち、そこから歩いて5分の大通りに新会堂が建った。

 











****************************石垣亮二


**自然豊かな辺野古の海が荒らされ、新基地建設工事が開始された時、沖縄の人々の心は一挙に炸裂して、 大勢の人達が眼の色を変えて必死の形相で2つの現場へ向かった。

**米軍基地のゲートから運び出される資材や部品を積んだ大型特殊トラックの乱暴な運行に立ち向かい、身体を張ってこれを阻止しようとする人たちだ。 その中には老婆が目をキラキラさせながら、大声で運転手や作業員への訴えを叫ぶのもあった。「沖縄の平和と幸せを何としても守るのだ」 「子供たちや孫たちの将来のためにこうして戦うのだ」と。

**また、海の工事現場ではゴムボートに乗った人たちが「工事をストップして下さい!」「大切な海を荒さんでくれ!」と叫びながら、警備員と文字通り命をかけて闘っていた。 何物にも代えがたい尊い姿を見るようだ。

**私達はいわゆる「本土」に住んでいる。沖縄の苦しみや悩みをどれほど自分のこととして受け取っているだろうか。この映画「圧殺の海」は映像により私達の魂をゆすぶり、 沖縄のために一人ひとりが何が出来るかを真剣に訴えている。(川から海へ)、沖縄と日本の自然、そして日本の平和を守ってゆきたいものだ。







*******************************西山純子

**いつの間にか夕闇が迫っていたのを、幼い2人は気づきませんでした。今まで来たことのない畦道の間をちょろちょろ細い川に似た流れがあったのを憶えています。 蝶々を追いかけていたのか、クローバーの花を摘むのに夢中だったのか、それも定かではありません。迷ったのです。

**光夫くんと私は2歳違いで、その当時は兄妹のように毎日のように一緒でした。光夫くんの両親は、当時はめずらしく2人とも仕事を持たれた夫婦でした。 ですから、光夫くんは鍵っ子でした。私の母もそれを承知で、夕暮れになり、ご夫婦のどちらかがお帰りになるまで、私と光夫くんが遊ぶのを見守ってくれていました。

**2人の家は裏隣りというのでしょうか。庭越しに光夫くんの家に明かりが点くと、彼は脱兎のように走って帰っていきました。おぼろげな記憶なのですが、 2人は半分ベソ掻きながら家に向かって歩いたと思います。

**そうして彼が、か細い声でくり返し歌ったことは、今もハッキリ思い出すのです。

**《さびしくなっても泣かないで 明るくきれいに照らしましょう 光れ 光れ 光れ》
**こども讃美歌と知ったのは後年でした。











   
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