秋の空を見上げながら 安東奈穂美
蒸し暑さの残る九月初旬、息子にとって中学生生活最後の体育祭があった。徒競走の競技中、カーブにさしかかったところで転倒、左手首を骨折した。次の登校日から車での送迎、放課後の外科通いが始まった。
九月も中旬を過ぎると空気が澄んで、周りの風景がくっきりと見えるようになる。午後の日射しは金色の柔らかさを帯びている。外科の治療が終わって外に出る頃は夕暮れ時で、赤味のある色から紫色へ刻々と空の色が変化していく。なかなかギプスがとれず親子で意気消沈してしまった時も、空の美しさは変わらず、心に迫ってくるようだった。
体の痛みとせつなさを体験した息子は、同時に癒される喜びも知ったことだろう。空を見ることが好きだが、秋の空には強い印象が残ったに違いない。私も秋の空を見つめるたび、そばにいて祈るしかなかった日々を思い返しながら、偉大な力に守られていることを感じていきたい。
感謝の献げ物 遠藤幸治
だいぶ昔の話しだが、大家さんから借りた畑に実った大根やかぶなどを、収穫感謝の礼拝に持参したらとても好評だった。
また、帰省した時、稲刈りを手伝った駄賃に少し分けて頂いた稲束を教会に持ってい ったこともあった。都会では、主に果物が多く献げられるように思う。
昨年、いろいろな野菜や果物に混じって缶詰があった。牧師先生は説教の中で「缶詰は初めてみました」といわれたので聴衆の笑いを誘った。
私も初めて目にしたが、缶詰であろうとカップ麺あろうと、感謝して献げ食するとき、神様は喜んでくださると思っている。
創世記のカインとアベルを思い出す。なぜ神様はカインの献げものに目を留めなかったのだろうか。
一方、アベルは自分の羊の群れの中から選りすぐりのものを献げた。
『初穂ささげて共に祝わん』(旧讃412)
秋もすでに 亀井正之
一年は、春から始まるのだろうか。日本ほど四季の移ろいのはっきりしている国はないと聞く。そのためか、多くの人がこの四季のように無限に生が連鎖していく輪廻転生の人生観を信じている。
しかし聖書(みことば)は言う『一度だけ死ぬことと死んだ後裁きを受けることが人間に決まっている』(へブル九章27節)と。
出生の春、試練の夏、そして収穫の秋、休息の冬、いや裁きの冬が来る。
私のこの一回限りの人生において、いつの間にか夏は過ぎた。秋もすでに終わるのであろうか。日暮れて道遠しとか。
休息ではない、私たちはその日一人一人イエスの前に呼び出されるのだ。主よ、どうぞ今しばらくお待ちください。お見せするイチジクの実が今はないのはご存知でしょう。
イエスは言われる。お前のいのちを精一杯生きろ。お前の闘いを精一杯たたかえ。わたしが共にいる。お前の骨は拾ってやると。
菊月夜 駒田 隆
歳時記をひもどくと、秋は、立秋から立冬の前日まで、としており、陰暦九月末日を秋が尽きる日、九月尽としています。また、秋は、大気が澄んで、四季の中でも月が一番美しく見えるとされ、秋の月は、昔から多くの人々に愛でられてきました。
無粋なわたしでも、東京へ行って帰りが遅くなり、秋の夜の帳が降りて来て、中天にかかる月を見ると、思わず足を止めて見とれてしまうことがあります。
預言者エレミヤや旧約の詩人たちは、夜を照らす月の光に、月を創られた神を称えました。
その月の光を浴びながら、パウロやペトロたちも、きっと、福音の種を蒔きつつ歩かれたことでしょう。そして、夜道を照らす月の光に、神の愛の深さを覚えたのではないでしょうか。
スラム街の医師、古賀まり子は歌います。
菊月夜双手にうくる神の愛
亡き母との出会い 荒井 文
小学校六年生の秋に養父を、高校二年の時に養母を失いました。一人ぼっちになりました。それからは全くの他人に引き取られ、暮らしました。
二年後の秋、なんと実父と祖母に会うことができました。祖母はクリスチャンでした。祖母と一緒に暮らすことになり、キリスト者の生活を初めて知ったのです。
実母は立派な信仰者だったと祖母が教えてくれました。生まれたばかりの私の命と引き換えに自分の命を失ったたことを知りました。イエス様の犠牲の愛を実行して私を生かしてくれたのでした。
学生時代に習った聖書のことは知識として知っていましたが、母の死を通してなお信じることができるようになったのです。亡き母が身をもって教えてくれたのでした。私も母のようになりたい、すべての造り主である神様を信じ、キリストを救い主として一生信じていきたいと決心した秋でした。
コスモスのお花畑を夢見て 佐藤晶子
東日本大震災の後、夫が庭にコスモスを数本植えた。畑の縁に疎らに寂しそうに咲いていたのを並べて植え直しただけで、二年の間にその本数は十倍以上になっていった。
十年程前の夏、私は家族で軽井沢へ旅行をした。その時、浅間山を臨む丘の斜面いっぱいにコスモスが咲き乱れる小路をゆっくり登りなら、将来こんな庭園を造りたいと漠然と思ったことを覚えている。
窓辺に腰をかけて外を眺めると、深みを増した緑の山々を背に、コスモスが風に身を任せてゆれている。
花は可憐で周囲を和ます優しさに溢れ、茎は細いが、花をしっかり支えている。
短い間に数を増やす、コスモスの豊かな生命力に感動した私は、神様からいただいた賜物を活かし、信仰の種を蒔きながら神様をほめたたえ、信仰の実が何十倍にも増えていくように祈っていこうと思うようになっていった。
芋ほり 山本披露武
全校生徒で芋ほりをしたことがあった。といっても観光農園でのことではない。戦争で悪化した食糧事情に対処するために校庭を潰してつくった畑での芋ほりである。
肥料にするための馬糞拾いも暑い最中の水運びも、全部、ぼくたちでした。そのかいあって見事な芋ができた。
「うわー、でっかい芋や!」
喜びの声が全校に溢れ、その上、明日はこの芋を煮てくれるらしいとの噂が流れて、益々喜びが膨れていった。もちろん翌日の給食では大きな芋の入った味噌汁が配られ、「いただきます」というなり、ぼくたちは一斉に芋を頬張った。その時の嬉しかったこと。
秋になってその時のことを思い出して懐かしんでいると、伝道の書の『人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない』とのみ言葉が思い出されてきて、思わず天を仰いだ。
義母の召天 松下勝章
「また会おうな!」義父の叫びが、会堂の中に響いた。この秋、長患いの後、天に召された義母が、お棺の中、静かに微笑んでいる。
ひじょうに熱心に主を求めた人だった。「忍耐強い」「信仰深い」という言葉、そのもののような人だった。彼女を通して、信仰の道に導かれた人や家族がたくさんいたという。私も、彼女から、たくさんの信仰の糧を受けた。
娘の名を決める時も、勤め先で苦労している時も、彼女の遠くからの祈りが、主を動かし、私を支え、導いたのかもしれない…、そんな想いがある。
私の勤務先の会社関係者から、意外にも、多々なる弔いの言葉が送られてきた。中には、人事部長や人事担当役員という方々の名もあった。その返礼に、私は、戸惑いながらも、後日、義父からの「会葬御礼」をお届けした。その中には、清かに主を証しし、導きを与える御言葉が並んでいる。彼女は最期に、大きな伝道の業をなして主の御許に召された。
目を覚ましていなさい 志田雅美
先日、季節外れの台風がやって来た。大型の台風だった。河川は氾濫し、道路は完遂し、それはそれはひどい被害をもたらした。
おかげで私も大変な思いをして仕事に回るはめになった。台風だからといって休みにならないのが辛いところである。
それにしても、最近の陽気はちょっとおかしい。寒暖の差が激しく、過ごしやすい季節が短くなったような気がする。それどころか、長雨、干ばつ、竜巻、大地震と、あちらこちらで自然が猛威を振るっている。もしかして、これは終末の徴だろうか…。
もしそうだとしたら、どうあがいても成すすべはない。神さまの御前に人はあまりにも小さい。そして、自然の前にも非力である。
だから、命の日々に感謝して、一日一日を大切に生きなければと思う。いつ、この世界が終わってもいいように。
イエスさまが言われる。
『目を覚ましていなさい』
実りの秋へ 長山 知子
私の父は人生の秋になって二足ならぬ三足のわらじをはくようになった。
三島病院勤務から国東産婦人科医院勤務なったこと、次の年一九八六年に新会堂が建ったこと、同じ時期三島プラザホテルのチャペルミエールの牧師にもなったことである。
結婚式はキリスト教式が人気の時代だった。日曜日の午前中(礼拝時)は受けない条件で始まった仕事によって、牧師としての顔が地域に広まった。
父が建てた手造りの会堂から設計士によるコンクリート造りになり、美しく好評だった。特別伝道集会、クリスマスコンサート、子供クリスマス会と大勢の人が集まった。どの集会も喜びがあふれていた。父四十代後半から六十代、働き盛りだった。
秋の紅葉が橙色、黄色、赤色、山吹色であるように、父の秋はまさに紅葉であった。父を囲む家族や教会員一同の祈りと協力でますます華やかに主を讃美していった。
母ダリア 長谷川和子
初秋に、コスモスを見かけることは多いがダリアの花はあまりない。ごく、まれに見かけた時は「うわっ、ダリアだ」と声をあげてしまう。
父の仕事から三年ごとの転勤。中学生の頃一軒屋の社宅に住むことになった。敷地が広かったので、母は野菜の他に何種類かの花を作っていた。その中の一つにダリアの花があった。中には手鞠ほどの大輪もあり、よく道行く人々が足を止めて見入っていた。
あのアメリカ同時多発テロ事件をTVで観ていた母の後姿が今も目に焼き付いている。その四日後に不慮の事故で天国へ旅立ってしまったからだ。我が家に引き取って一年足らずだった。「私は嘆き疲れました。夜ごと涙は床にぬれ寝床は漂うほどです」詩編六・七の心境そのものであった。
ダリヤの花を見る度に甲斐甲斐しく働いていた母の姿が浮かび、込み上げる涙と共に温かな感情に満たされるのである。
母の秋 三浦喜代子
その秋は、初めて母の介護に明け暮れした。母は七月半ばに洗礼を受けたばかり。八十八を半年過ぎていた。長年祈り続け待ち続けてきたことだけに、喜びはひとしおであった。
ところがこの恵みを機に老いは勢いを増し、ついに寝付いてしまった。神様は危機一髪のところで母を救い上げてくださったのだ。
毎晩、就寝前に母のベッドわきに座り、賛美歌を歌い、一日の感謝の祈りをささげた。
ある夜、母は「あれを祈ろうじゃないの」というのだ。あれって、なあに?
それは覚えたての主の祈りであった。ずっと頑固にイエス様を拒否してきた母である。変われば変わるものだと半分おかしささえ感じながら声を合わせた。同時に心の奥底から感謝とうれしさが浸みだして頬を伝わった。
しだいに母は弱っていったが、秋を二回過ごして、九十歳十一か月のクリスマスの朝に御国へ旅立っていった。急がず遅れず、いかにも母らしい悠々とした旅立ちであった。
寄り添って 西山純子
起伏のあるその道は、くねくねしていて先の方は定かには見えなかった。その上、気づかない間に靄が煙のように一面に立ちこめていて、私たちは完全に視界を遮られてしまっていた。
ガス灯のような微かな明りが道の両端にあるのが見えるまでは息も詰まる思いだった。そろそろと手探りするような歩き方で、乳白色の世界を進んで行った。引き返すことは出来ないから進むしかなかった。
或年の十月末、夫と娘と私の三人で長野県黒姫にあるミヒャエル・エンデの童話館に向かっていた折のことだ。
もう限界かと思えたその時、不意に視野が開けて、靄は全く去り、目の前に童話館があった。驚きと喜びで三人は、歓声を上げた。
確かにあの時、共に歩いて下さった方がいた、そうおぼえたのは、「雲の橇」という名のペンションでホッと寛いだ瞬間だった。
南国の花 青葉亜樹子
タイ、バリ島、ハワイ、南の国へ行った先々で、プルメリアの枝をお土産に買う。ハワイなどでレイに使われている花だ。長く育てている物は七年になり、二メートル程の樹になっている。暖かい所が好きで寒い所が苦手なところは、私にとてもよく似ている。
秋が進んで街の木々が黄金色に染まるころには日々、天気予報との睨み合いとなる。日本には冬があるからだ。樹を室内へ入れ、水を枯らして冬眠状態にするのだ。台風で枝が折れてしまったときは、横殴りの雨の中で枝を修復した。
私にとって樹の一本は、それぞれ旅の思い出でもあるのだ。また、初めて出会った時の香りが忘れられないのだ。
夏になると南国に咲くハイビスカスや彩り豊かなプルメリアを見て配達の花屋さんや家の前を通る人が「どうして!?なぜ?ここに?」と驚く。私はそっと笑みをもらして、咲かせてくださった神様に感謝する。
雑草とバラの花 石垣亮二
私達の教会では年間を通して催事がある時には、みんなで軍手をして、鎌、シャベル、鍬などを手にして草取りをします。
今年は七月の「故池田勇人牧師・追悼サマーコンサート」の前に草取りを行い、教会の周辺を綺麗にしました。たくさんのお客様を迎え、大きな喜びと恵みの時になりました。
秋には、九月に地域の方々や家族友人を招いて開催される「特別伝道集会」や十月の「チャペルバザー」のために、力を合わせて茫々と生い茂った草刈りをしました。
教会の会堂南側の細長い小さな空き地や庭を囲っているフェンスのそばには、色とりどりのバラの花が植えられています。今年のバラは白、ピンク、赤、黄、紫など、とても美しく見事なものでした。
神様は雑草であれバラであれ、大自然の万物を支配されておられます。
『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ』イザヤ四〇・8
神様のしるし 山本千晶
「こんなときによく笑っていられるね」
このひとことを再び耳にすることが怖くて、暗いニュースが蔓延している世の中で楽しみを見つけ喜び合うことに気遣いするかつての私がいた。
しかし2年前の大震災の後、私は変わった。失った喜びを返してくださるお方、苦しみや悲しみが押し寄せる日々の中で喜び歌うことへと力づけてくださるお方の存在を確信する日々が始まった。
あの日以来、悲しみを共にする仲間と歌声を響かせるたび、私はその瞬間を喜ぶ。
3年目の夏を過ごし、世の中は解決すべく課題に将来への道は苦難だらけに思える。それでも私は神様が与えて下さるしるしを見つけながら、喜びの歌を響き渡らせたい。何度でも繰り返し、しるしを届けて下さる神様。
根気よく届けて下さる神様を畏れ敬う心を携え迎える秋、養われた心の中に爽やかな風が届いているのを感じる。
助けて!と叫んだら 土筆文香
いちばん嫌な季節は秋だった。秋風がふくと同時にヒューと胸が鳴る。その音を聞くとぞっとして鳥肌がたった。喘息に二十四年間も悩まされていたが、自分が喘息患者であることを認めたくなかった。
喘息は発作が起きてないときは、何の苦痛もない。夏は出ないので治ったと思っている。秋になって出てくると、憎しみの感情がわき上がる。喘息に対してだけでなく、秋そのものが憎らしくなる。
夜中にひどい呼吸困難に襲われたとき、このまま死んでしまうのかと思った。神に向かって「助けて!」と叫ぶと、肩の力が抜けた。
一緒に苦しんでいるイエス様の姿が目に浮かんだ。
『苦しんでいたのは、わたしひとりじゃなかった』そう思ったとき、自分が喘息患者であることを素直に受け入れられた。
そのときからひどい発作は起きていない。
秋はいい季節だと思えるようになった。
秋のひかり 島本耀子
娘が通うミッションスクールのPTA仲間のK子さんから、秋の色は何色かと聞かれた時は戸惑った。「白かしら」という私は、北原白秋からの連想にすぎない。だが彼女は、我が意を得たりとばかりに頷いた。秋の陽が射しこんだとき、白い光を見たと言うのだ。
彼女の感受性に驚き、以来私は、四季の各色を考えるようになった。本棚の歳時記を調べると、やはり秋の色は白だった。本を開けば我がものとなる知識が、読まなければ、目の前にありながら、永遠に眠ったままとなる。
校長先生の聖書のお話も、更に読み進めれば新しい感動があった。私の頑なな心が開かれるまで曲折はあったが、受洗の報告をした時、校長先生は手を取って、喜んで下さった。
今年の夏も殊の外の暑さに悩まされ、ひたすらに待つ秋だった。久しぶりにまとまった雨が降った後の昼下がり、窓から斜めに射しこむ陽が床に白く輝いていた。秋は短いけれど、今年の秋も無事に迎えられて、感謝した。
いま明かす過去 富岡国広
あれは十七才の頃のことだった。
友の誘いで着いた建築現場の仕事。三度目の職場である。がそれも、こらえ性のない私にとって辛いだけのものだった。
具合でも悪くなればと思い、覚えたばかりの煙草をたて続けに喫う。体調を崩して休みの連絡をとる。一時死も考えた。そして病気になれば仕事がやめられるとの切羽つまった気持から、とうとう自分を病人に仕たてて東京を後に千葉の実家へ逃げ帰ってしまった。
無二の親友の期待を裏切り、仕事を放棄。加えて、三年の半ばまで通った夜学も中退。
それが私の唯一の秋の思い出であった。暗く、やり切れない、誰にも知られたくない過去。だから、誰にも絶対に話すまい。信仰に導かれることのなかった私なら、必ずそうしていた筈だ。でも、今は違う。こんなちり・芥に過ぎない私をも、否そうであればこそ、神はあわれんで下さった。
それは最早疑う余地はないからだ。
再び命を 槇 尚子
数年前、義母から電話がかかってきた。「初夏の頃あなたが植えてくれたインパチェンスね、花が終わったので株すれすれに切ったら、また葉が伸びて花がいっぱい咲いたの」。さっそく見に行った。プランターいっぱいに育ったインパチェンスは秋の日を浴びて鮮やかな赤い花を咲かせていた。
義母は若いころ受洗、それは苦しみの真っただ中での神様との出会いだった。五人の子を残しての義父の病気入院。長い療養生活で、義父は帰ることはなかった。そんな中、子供を教会に送り、自分も教会生活をしていたが、高齢化と病気のため通えなくなり、私どもの教会に転会して同じ教会員になった。
義母を見舞う時、何か喜ぶものをと携えた花が、まるで復活したように新しい命を見せてくれたのだ。「この花見ているとね、元気になるのよ」。晩秋のベランダに咲く花は神様からの手紙のようだった。義母は小さな幸せを神様からたくさんいただいて召されていった。