私をつくりかえた夏 安東奈穂美
中学二年生の夏、初めてバイブルキャンプに参加した。
夜の集会で、女性の伝道師が聖書からお話をした。柔らかい優しい声だった。聖書の語る罪について、親への反抗も例に挙げ、
「そういうあなたではないですか」
と問いかけられた。その瞬間、周りの風景が消え、罪人とはこの私だ、と悟った。
高校二年生の夏には、幾つかの教会が合同のキャンプに参加した。テーマは「神の栄光のために」で、何回かメッセージを聞くうちに神が導かれるならその招きに応えたいと思った。同時に自分の内側にある醜さがあぶり出され、キャンプファイヤーの後で担当の先生と二人で祈った。神の無限の愛で全身を包まれる感じがして、涙が止まらなかった。
今も十代の頃に据えられた土台の上に立っている。自分を取り巻く環境の変化や体力の衰えは否めないが、根本に宿ったものはその熱を失わず、これからも私を生かし続ける。
蝉と語る 遠藤幸治
二年前の夏だった。狭い書斎でペンを取っていると、窓辺に油蝉が止まり鳴きだした。
ペンを止め、しばらくじーっと見つめていたが、幼少の頃を思い出し、そっと近づき素手で掴まえてしまった。台所の笊の中に入れると、勢いよく鳴きまくった。
――おい、そんなに鳴かなくてもいいから、俺と話そうよ。お前も一生の終わりが近づき、ありったけの声で神様を呼んでいるんだよな。でも、老人の手に掴まるなんて、どうしたの?
――蝉よ、お前は夏の王様と言われるが、寂しいんだろう。俺もそうだよーー
蝉は鳴きやみ静かになった。
仕事から帰宅した妻が「よく掴まえたね」と言った。
――そうじゃないよ、蝉の方から俺の部屋に来たんだよ、そうだよなー―。
しばらくして、蝉は私の手から飛んで行った。台風の来る前だった。
導かれるまま―夏
皆川 江里子
次男に付き添って学校の被災地旅行に参加する予習に、地図を広げた。新幹線を一ノ関駅で降り、バスで気仙沼へ…その途中に「千厩」の地名を発見した。ここだったのか。教会の掲示板に貼ってあった「千厩教会献堂式の案内」を改めて確認した。
八月一日にバスで通った千厩。八月三十日に再び次男と二人、大好きな電車で千厩駅に降り立った。
新たな土地に再建した千厩教会にはたくさんの人が集まっていた。縁もゆかりもない場所だが、今の自分にできることは一緒に祝い、祈ることしかないとやってきた。再び立ち上がる、その礼拝に参列し、私が恵みをいただく。長く横浜に住んでいらした方と話し、お嬢さんが我が家の近くに住んでいるという。
その後、JCPのクリスマス祝会にお誘いいただくことになった。
荒野にオアシスを 亀井正之
神学校では卒業前に実際に教会に泊まり込みでの奉仕活動が課せられた。その夏、私たちが遣わされたのは東京郊外の小さな教会であった。
その日の暑さは特別であった。朝起きた時から、窓の外に見える植物にいつもの穏やかさはなく、ペンキで塗ったばかりのようにけばけばしく攻撃的にみえた。
一〇分ほど歩いて決められた地区に一軒一軒集会案内のチラシを投函するのが今回の私たちの奉仕だ。一歩そとに出ると真夏の光線が皮膚を刺した。ジリジリと音を立てているようだ。家や木の影は黒々と見えた。その黒い影の中に入ると魚が水の中に入ったようにほっとした。この木陰は、まさに砂漠のオアシスだ。
すると突然、このチラシがとても尊いものに感じられた。この砂漠のような街でキリストの教会が、いや私たちが、オアシスにならなければと思った。
「国破山河在」 駒田 隆
夏になると思い出すのは、昭和二十年八月十五日の終戦の日です。
正午からの終戦の玉音放送を聞いた時のことは、今でも忘れられません。それからは、今までの価値が逆転して、鬼畜米英が民主国家米英になり、十五歳のわたしにとって、大人は信用できなくなりました。ただ、杜甫の歌った、「国破れて山河あり、城春にして草木深し。」、という『春望』の詩が心にしみてきました。さらに、「時に感じて花にも涙を濺(そそ)ぎ、別れを恨んで鳥にも心を驚かす。」、と、この先の多難な時を思う言葉が続いて感銘を受けました。
あれから六十八年、わたしにもいろんなことがありました。でも、その月日は、戦のない穏やか日々でした。イエスを信じることのできた、充実した日々でもあったのです。それは、二度と離したくない平和の日々であって、二度と経験したくない戦のない日々であったからこそ、手にした日々でした。
泳ぎの恩人 山本披露武
四年生の時だった。突堤の先に立って上手に泳いでいる人たちを見ていると、同級生の一人が近づいてきて、「泳ぎ方、教えたろか」というのだ。
あまり親しくない同級生だったので返事に迷っていると、いきなり押されてドボンと、海の中へはまってしまった。
「助けて!」などという暇もなく、必死になって手足を動かしていたら手の先に何かが触れた。突堤の先端にある岩だった。
しめた! そう思ってその岩を掴んで這い上がり、ハーハーいいながら苦い息をはいていたら、先の同級生がやって来て、「泳げるようになったやんか」といって笑うのだ。
「何をいうか、ぼくは死にかけたんだぞ!」
腹が立ってしかたなく、大声で怒鳴り返してやろうと思った。が、泳げるようになったのは彼が背中を押してくれたからなのだと思い直し、怒鳴るのをやめた。
今はその彼を、泳ぎの恩人と思っている。
げろげろの晩夏 松下勝章
この夏、「ある豆」を鱈腹食って、その夜、お恥ずかしいことながら、気分が悪くなり、夜中に吐いた。翌日は、大切な資格試験の日だったのだ。
というか、その日に備えて、「心が落ち着くという豆」をムシャムシャ食ったのだが、それが災いしたらしい。布団、床が、豆かすでいっぱいになった。なんともいえない虚脱感と、力の抜けた感覚。
けれど、翌日の試験日は、どうしたことか、
いつもより、力が抜けて、すらすらと試験に臨めた。「心が落ち着く豆」は全部、腹の中から出ていったのに…。
一切を捨てる、というのはこういう感覚かもしれない、そう思った。投げやりでもなく、力みもない、すらすら…。
結果は、残念ながら不合格だったが思ったより、力を発揮できた自分に妙な満足感があった。神の恵みは、人の行い、努力とはしばし食い違う。パウロ曰く、「死は益なり」と。
心も熱い、高校生の夏 佐藤晶子
「夏」をテーマにした文章を綴る課題を前に、私は自分の記憶を高校生の頃に巻き戻し夏休みの宿題に出された読書感想文について考えてみる事にした。
日中の最高気温が、地球温暖化の影響で上昇している今日より五度位は低かったに違いないが、エアコンがまだ普及していない当時も猛暑は身体に堪え、ぼうっとした頭で、四十日間に課題図書を数冊読むのは読書好きの私にも辛かった。
そんな中、大岡昇平著『野火』が私の頭を打ち心を砕いた。読み進むうちにどんどんのめり込み、戦地で主人公が体験する、尋常ではない残酷さ極まる場面や感情の浮き沈み、人間として許されない、狂気とも言うべき決断を迫られる状況が露骨に描かれていて衝撃を受けた。
読み終わった後、世界の平和を祈りながら私は思った。本当の平和が醜い戦場の混乱の中でしか生まれないのであれば、天地創造の主は一体どこにおられるのだろうと。
夏の山村 荒井 文
ライ病院に勤める父の転勤で、群馬県草津の山奥に暮らしたのは小学校三年生の時でした。高山植物や動物と遊んだりして自然と仲良く暮らしましたが、登下校に五時間もかかりました。
学校に寄付するために山菜を採ったり、炭焼き小屋の手伝いもしました。九歳の私にはつらい経験でした。当時のライ病院は人里離れた辺鄙なところにあったのです。
それから十余年たって、神様を知りました。クリスチャンになってからも試練がありました。あの頃の厳しい自然との経験はそのためだったと知りました。また、老いても自然を楽しめるようにと神様が体験させてくださったのだと思うようになりました。
あの時代の大変さを経験したことによって、その後の苦しみに耐えることができたのです。信仰をもっていてよかったと思いました。私の知らないうちから、神様はわたしを選んで鍛えてくださったのでした。
蝉 志田雅美
散歩の途中、蝉の亡骸を見た。私は歩を止め、蝉の一生に自分の人生を重ね合わせた。
蝉は七年間土の中で過ごし、たった一週間で地上の生を終えるそうだ。子孫を残すために、ただひたすら鳴き続けて果てるとは、なんという虚しさであろう。そこに喜びがあるのだろうか。でも、それが蝉に与えられた分だ。虚しいと感じることもなく、与えられた生命をまっとうしている。
もし、私が蝉として生命を与えられても、そうすることが当たり前のように羽をふるわせるだろう。自分はなんのために生まれてきたかなど考えもせず、これからどうなるのかと不安を感じることもなく。
私はなぜ人として生まれてきたのだろうと考える。人も神さまの摂理の前に小さい者だ。人生もはかない。でも、たとえ今、生が波乱に満ちていても、天には平安があるとわかっている。だから、喜んで生きていこう。
蝉の亡骸が語っているように感じた。
朝露の涙 槇 尚子
ある夏の朝、いつものように家庭礼拝をしていた。体が弱い母の手伝いに父の郷里から泊まりがけで手伝いに来ていた従姉も一緒だった。聖書、讃美歌、祈りと進められていったが、そのうち従姉が泣き出してしまった。なんのことかわけが分からなかった私は、
「マサ子ちゃんはなんで泣いているの」
と小さい声で母に尋ねた。母はすぐ小さい私を縁側に連れて行って、
「ほら、里芋の葉っぱのつゆが綺麗」
と気をそらそうとした。朝の光を浴びて葉っぱの真ん中で丸くなって光り輝く水滴を、今でも忘れることができない。彼女が初めてキリスト教に触れた喜びの涙だった。その後しばらく父と話し込んでいた。
岩手に帰った従姉はその後地元の教会で、洗礼を受けた。彼女の人生で思うようにならないことがいっぱいあったろうが、この朝の家庭礼拝は大きな曲がり角だったと、後に言った。北上教会で今も奉仕に励んでいる。
溺れかけて 三浦喜代子
終戦の年、一家をあげて母の里に疎開した。そこは漁師町。浜っ子たちは梅雨明け前からから土用波の立つまで、一日中、海にいた。
「今日はドックで泳ぐべえ」
(行ったことない、こわい――)まだ、六歳の私はひるんだ。が最年長の従姉の一言で、十人ばかりの女の子は砂浜を走った。ドックは漁船が停泊する人口のプールだ。船が出て空っぽになると、そこも泳ぎ場になった。
泳ぎ出して、息継ぎに立とうとしたが、足が底に届かない。どこまでも沈んでいく。がぶがぶと水を飲んだ。鼻からも入った。苦しい。もがいても、もがいても頭が外へ出ない。
ふっと体が浮いて息ができた。堤防から飛び込んで私を抱えた人がいた。
「ごめん。きよちゃんは東京っぺだもんなあ」従姉たちは私を取り囲んで大泣きした。
そのとき、自分が死の隣りにいたとは知らなかった。生と死を握る神様がおられることも知らなかった。
こころに緑の木を 山下邦夫
若葉かおる初夏、万物がいきいきと輝き、木々で小鳥はよろこびをうたう。
昭和十八年、僕は国民学校四年生、皆でうたった「若葉」、「あざやかなみどりよ、明るいみどりよ……」。さわやかな詩と生気あるリズム、僕はいまも口ずさむ。
戦時一色の世の中、だが自然の営みは変わらない。稲は日に日に伸び、キュウリやナス、トマトが出揃う。桑の葉を食む蚕さんのかすかな音、わさびを育む山からの清流、水しぶきをあげて廻る水車の水色の音……。
あれから七十年、いま地球が危ないという。
『神は恵みをもって天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとであなた方の心を満たしてくださった』と聖書は語る。
先祖は大地と自然の精妙な営みに感謝し、営々として「瑞穂の国」日本を築いてきた。
今こそ確かめよう。私たちの為すべきことを。皆の心に神の愛という緑の木を植えよう。人類の永遠の未来のために……。
素足にサンダル 西山純子
夏生まれの私は、あまり大した訳もなく心のどこかでときめいてしまうのです。
高い空を見上げて咲く黄色いヒマワリが好きです。足の裏をくすぐりながら大海原に引き込んで行かれそうな波打ち際が好きです。
素足にサンダルを履くというよりは突っかけて、スカートの裾を翻すような勢いで走る私のイメージがワクワク浮かぶのです。
それが遠い少女の私の面影であったとしても、かまわないのです。
その延長線に今の私が存在していて、言葉にならない感謝と嬉しい気持ちがいただけるのです。
こんなに長く生かされて、信じて祈ること、委ねきること、友のために願うこと、笑顔で苦境を超えられてきたこと、この夏も近所のコンビニに行く道すがら、「ありがとうございます! 神様」と、スキップできそうな私がいます。
誰かに知らせたい夏の想いです。
小学二年生の夏休み 青葉 亜樹子
私は四才の時から患った病のために夏休み中も病院へ通っていた。友だちは皆、「亜樹ちゃんごめんね!田舎へ行くの、帰ったらいっしょに遊ぼうね」と言って姿を消してしまう。
私は毎朝ひとりで学校へ行って、パカパカと咲く多彩な朝顔の花に目を輝かせ、太陽の光りにキラキラと揺れるプールへ跳び込んでゆうゆうと泳いだ。閑散とした校庭で、一輪車に乗って走り回り、高学年生が育てたひまわりやヘチマをながめ、鳴きつづける蝉の声を聴き、むせ返るような草の匂いを思いっきり吸い込んだ。真っ黒に日焼けした。
病院へ行くと、同じ治療を受けているのに、鳥籠で遊ぶカナリヤのようにまっ白な子どもたちがいた。
母はなんでも自由にやらせてくれた。
宿題は初日に全部終わらせた。絵日記だけは最後の夜に書いた。病と闘ってはいたが、思えばたくましい二年生だった。振りかえると、神様の恵みの中で心も体も裕福だった。
ひ祖母の時代から東京に住んでいる私には、田舎がない。夏休みほど嫌いなものはなかった。
私にとって夏休みはなのだ。
宿題であるが、国語や算数のドリルは終業の渡されたその一日ですべて終わってしまう。読書感想文はすでに読んでしまった本、『トムじいやの小屋』『ああ無情』『ヘレンケラー』などから書いてしまう。ただし、一番苦手とする絵日記・観察記録・自由研究、こればかりは一日で終わらせる事ができない。それは八月三十一日の夜に泣きながら片づけるのだ。
「学校なんてバイ菌だらけ、転んでけがをしたりしたら」と言う親も多くいた。
それも一つの『親の愛』なのだろう。比べてはいけないと思いながらも自分と同じ病で同じ治療を受けているのに、その子どもたちは鳥かごの中で遊ぶカナリアのようだった。私の目にはそのように映った。
どちらが、どう恵まれていたかなど私には分からない。
九月一日、新学期の初日に、通信簿といっしょに胸をはって鼻高々と宿題を全部提出した。
前日の夜に泣きながら五日分の絵日記を描いたなど、みじんも外に出すことはしない。たくましい小学二年生の私だったのだ。
今、ふり返ると、特別に旅行へ出かけるなどはなかったが、私は神様と神様から与えられたものに恵まれて、心も体も裕福だったと思う。
ひっくり返った下駄―兄の死より 石垣亮二
夏の暑い日だった。病院の地下にある霊安室には、白いハンカチを顔にかけた兄が横たわっていた。私は大声で泣いた。底知れぬ孤独感に襲われたのだ。今も記憶が蘇る。
当時私は、札幌郊外の民家の屋根裏部屋に下宿して市内の予備校へ通っていた。兄の死を聞いた私は、カバンを下宿の玄関先に放り出し、息せき切って病院へ走った。履いていた下駄の鼻緒が足指に引っかかり、人けのない病院の玄関に、ポーンと飛んでひっくり返った。
今思うと、下駄は私自身だったのだ。その年の秋、近くの教会の特別伝道集会へ三日間通った。私は、自己中心の人生から逆転した生きる意味に目覚めた。
この時のイエス・キリストの十字架への思いが、ひっくり返った下駄のように、心の疼き、心の呻きとなり、信仰者としての人生へのスタートとなった。
この時から七年後に、私は受洗した。
造られたお方 山本千晶
子どもの頃、夏休みになると毎年、両親の故郷である富山県に帰省していた。
当時、六時間は優に超える移動だった。長旅であるにも関わらず、私はいつも旅を楽しみにしていた。車窓からの眺めに飽きることがないのだ。
上野を出発した列車は、幾つものトンネルを抜けた。陽の光が差したり途切れたりを繰り返しゴーゴー音を立て列車は走った。やがて、暗く長いトンネルを抜け出ると、眼下に力強い波しぶきが飛び込んでくる。日本海だ。
しばらくすると列車は静かに砺波平野の真中を走り始める。一面の水田。緑の稲が仲良く風になびいて見える。その先に高く連なる立山連峰が左右に広がり堂々と姿を現す。
雄大な自然の様々な姿は、今でもはっきり目に浮かぶ。この自然を造られたお方がいらっしゃる。後々、知った。そのお方の存在を素直に信じることが出来た。きっと、あの夏の風景に教えられ育てられた思いなのだろう。
教会堂を建てる 長山 知子
父にとっての人生の夏は結婚と開拓伝道である。二十歳で神と出会い神学校を卒業した父は、若さの中で新しい季節に向かっていった。
二十八歳で同じ伝道師であり同じ年である母と見合い結婚をした。結婚と同時に所属していた教会から独立し、単立教会を始めた。三島キリスト教会である。アパート一間からの出発だった。
やがて私と妹が生まれ、母方祖母も迎えて五人家族になった。創立から六年後、中古物件(借地)を購入して教会堂作りが始まった。平日は社会保険三島病院で事務員として働き、夜勤明け制度で昼間が休みの時に大工をして教会堂を作り上げた。日曜日は牧師をして二足のわらじの生活だった。
母も牧師なので二人で分担しあう形であった。父母は若さゆえに乗りきった。教会堂が出来、教会活動が活発になった。夏は父にとって教会の土台作りの時だった。
あのときの少女は何処に 長谷川和子
道路を挟んだ向かいの家はお屋敷に相応しく石塀は民家の五軒分も有り、立派な門構の奥には樹木が生い茂り、建物は一部しか見えない。そこに住むご夫婦の姿は遠目に数回しか見たことがなかった。新潟の西部、長野県寄りの中深見村の人々は、「旦那様の家」と呼んでいた。
夏休みになると毎年一人の少女が見附市からその家に泊りに来ていた。我家にも遊びに来ては、町の様子など笑みを浮かべながら話してくれた。「なんで笑顔でいられん?」と聞いたことがあった。「神様がいつも喜んでいなさいと言っているから」というではないか。意味が分からなかった。七年後、聖書の中に「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロ二ケ5・一六)のことばを見つけ、少女の顔が浮かんだ。十九歳で受洗した私は今思うに六十年前に初めて出会ったキリスト者が彼女だったのである。
生きておられる神 土筆文香
教会学校の奉仕でいちばん大変なのは一泊二日の夏期学校だ。
その夏はことさら暑かった。もともと体力のないわたしだが、乳がんの手術を受けてから夏がつらく、少しの間炎天下にいるだけで目眩と頭痛に襲われた。
術後三年は夏期学校の参加をひかえていた。四年目に夏期学校で子どものカウンセリングを行うことになった。神様から促され、参加の決心をしたものの連日の猛暑で体調が悪く、不安でたまらなかった。
聖書にはエリヤが祈ったとき、神が掌ほどの雲をのぼらせて雨を降らせたと書かれている。三年も雨が降らなかったというのに。
神様から行くように示されたのだから、必ず守られると信じて出かけた。すると、前日まで最高気温が三十五度だったのに当日朝、少しの雨が降り、七度も気温が下がった。
神は生きておられ、天地万物あらゆるものを総動員して守って下さったのだ。
朱夏炎上 島本耀子
一家の少数派であるクリスチャンの姉と私の願いは母の救いだった。母の願いで信仰告白の祈りが導かれた時は嬉しかった。
だが、男兄弟の反対で暗転、牧師の再訪を願うわけにはいかず、只々祈る二年間だった。
臨終近く、牧師が母のベッドを訪問し、祈りと讃美を捧げてくださった。母は大きく目を見開き、静かに聞いていた。六日後、母は天に召された。おぼろげながらも意識は最後まであり、眠るように息を引き取った。六人の子を生して、百三歳と六か月の生涯だった。
「おくりびと」の手により、亡骸は純白の衣に包まれ、一世一代のおめかしがなされた。花で飾られた母の顔は穏やかだった。
葬儀は仏教式。焼香台の前に進み私たちは信仰による祈りを捧げた。母の霊はすでに天に帰っている。母が誰よりも愛した息子たちとの地上の葛藤は終わった。梅雨も明けた。
夏の色は赤、『朱夏』ともいう。白は紅蓮の炎に送られて、セレモニーは終わった。
嫌いだった夏 富岡 国広
特に暑さに弱い私は、夏などなければいいと思うことがよくあった。なぜなら、暑いから氷や冷たい飲み物を求めるうち、お腹をこわし夏バテをおこした。泳ぎが苦手で、川などへ行くこともなかった。同年代の者とはウマが合わず、一緒にどこかへ行くこともなかった。だから、夏は本当に嫌な季節であった。
その私が、ウツが原因で教会に行くようになったのが、夏の季節であった。そのお陰で、長い年月を経たけれど、救い主である神との出会いが生まれた。もう、夏が嫌いだなどと口にしなくてもよくなった。その視点が与えられると、これまで見えなかった世界が見えてきた。
色、かたちの違う種々の虫や鳥たち、さらに大小種々な草木。私が生まれる前からあったこれら身近な自然が、いま活況として、私の目にとびこんできた。
『地はあなたの造られたもので満ちている』 詩篇一〇四篇4節