もう少し前へ 安東奈穂美
もう四十年以上前の春、私は電車に乗って一駅隣の教会附属幼稚園に入園した。この園で神様の存在を知った。
中学生になり新しくできた友人が教会の話をした。おもしろい先生がいると聞き、遊び感覚で行ってみた。丘の上に三角屋根の教会、漠然と抱いたイメージに重なり中高科礼拝にも違和感はなかった。次第に熱心に通うようになり、中学三年生のクリスマスに受洗した。
それから一年程過ぎた頃、牧師が開拓伝道のため教会を離れると聞いた。留まるのか、出ていくのか。未熟な信仰ながらも、祈って開拓伝道に参加する道を選んだ。
それから三十数年が経った。私は新たな扉の前に立ち、踏み出そうとしては戻っている。自分はあかし文章を書けるのか、逡巡するうちにまた春が巡ってきた。例年より早く咲いた桜。振り返ると私を導いてくれた幾つもの顔。暖かな日射しを感じながら少し前に出てみよう。
麦踏み 遠藤幸治
春で思い出すことの一つに麦踏みがある。前の年に畑に蒔かれた麦の穂、芽を出して暫くすると、深いふかい雪に覆われ、寒い冬に耐えながら春を待っていた。
雪も徐々に解け、蕗の薹も初々しく顔を覗かせるなか、畑の麦たちも一斉に顔を出すが、その姿は弱々しく畝をなしていた。
私の育った福島の農家では春一番の仕事は麦踏みだった。両手を腰に回して、足でしっかりと丁寧に麦を踏む。子どもをおんぶしながら麦踏みをする母の姿が目に浮かんでくる。
麦たちは踏まれることによって土に深く根を張り、また根を増やし、強く成長して豊かに実を結ぶ。原発事故によって汚染されてしまった畑に春の希望を夢見ているが、天国には麦畑などあるだろうか?
賛美歌21番五七五のリズムに合わせて麦踏みをしてみたい。
球根の中には/花が秘められ/さなぎの中
から/命はばたく/寒い冬の中/春は目覚
める/その日その時を/ただ神が知る。
導かれるまま―春 皆川 江里子
長男も次男も歌うのが大好き。クリスマスには、そろって燭火礼拝の聖歌隊に加わり、
私もピアノの伴奏をもって賛美を捧げられたのは大きな喜びだった。
「ふだんの聖歌隊に僕も入る」
と小三の次男は真顔で言うのだ。
毎週の練習は子どもの教会学校の時間帯と重なるし、彼からみたらおじいさんおばあさんばかりだけど、ホントに入るの?
私は、礼拝のオルガン奏楽は五年ほどしているけど、合唱のピアノ伴奏は異質なので避けてきた。しかしとうとう、指揮者から言われ、伴奏に入ることになった。
毎週の練習は生活リズムに慣れるまで少し大変だった。でも息子とともに賛美できる楽しさや、幼いころから一生懸命練習したピアノの技術を生かして、賛美の歌声とあわせる喜びを体感させていただいている。
ナルドの香油は春のかおり 亀井正之
寒い冬日が続き、昔の青森での雪国暮らしを思い出した。十一月半ばから降り出した雪はそのまま消えることなく根雪となり、その上にさらに降り積もった。十年来と言われる大雪となった。毎朝大汗をかいて雪かきをした。雪かき無用の春が待ち遠しかった。
教会学校で、マグダラのマリヤがイエスに注いだナルドの香油に興味がわいた。イエスの葬りの準備をしたと言われた香油だ。どんなものか興味がわいた。気になり出すとたまらない。ネットで求めて到着を待った。
それは意外にもむせ返るような野太い土のにおいがした。奥深い森林の香りだった。
イエスはこの高価な香油を注いだマリヤに「わたしの葬りの準備をしてくれた。この女のしたことは永遠に記念となるだろう」と称賛した。
この香りは、主イエスにとってと同様、私達にとっても使命達成のための大きな励ましではないか。復活の春の前兆にも思えた。
安らぎ 駒田 隆
八木重吉の詩に、「春」と題する詩が幾つかあります。その一つに、「夕方の赤らんだ空/私の心がやすらかになる空」、という、たった二行の詩がありました。
清少納言は、「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く‥」、と春の夜明けを謳歌しますが、彼は、夕空に安らぎを感じています。
人は、春の自然を見て、感じて、何を思うでしょうか。あるいは、自然を眺める余裕もなく、いつも、現実社会に明け暮れている人もいるかも知れません。
しかし、現実がすべてではありません。理性で、すべてが解決出来るものでもありません。現実を直視することも必要なことでしょう。けれども、それではあまりにも淋しすぎます。
神から与えられた自然を、少し眺めて見ようではありませんか。そこには、八木重吉が安らぎを覚えた春の夕空が、赤らんだ空が、あなたを招いているかも知れないのです。
春の歌に思う 佐藤晶子
雪が溶けて気温が上がるとともに、冬眠していた動物や昆虫たちが外に出てきて、一斉に活動を始める。「春ですよー。」というアラームのようだ。
人は冬眠しないが、寒い冬の朝には背中を丸くして縮こまってしまう。
春になると、うららかな陽ざしと心地よい風に誘われて思わず外に出たくなるだろう。まるで、地球の内部に仕掛けられた大きなバネに弾かれて外に出されるように。
一年のうちで最も生命の息吹きを感じられる春は素敵な季節のように思えてくる。
携帯に目覚ましとして登録した『春の歌』(メンデルスゾーン)を毎朝聴いているうちに、自分が犯した消すことのできない罪のためにイエス様が十字架にかかってくださったことに、私は改めて気づかされ、心から悔い改めの祈りを捧げた。
今年の受難節には『春の歌』を聴きながらイエス様の復活を全身で喜びたいと思う。
「こんにちは」の一言 山本披露武
山に行くと知らない人とでも気持ちよく挨拶を交わせるようになるから嬉しい。
家内と筑波山に登った時だった。御幸が原コースの中ほどで足を止め、鶯の声に耳を傾けていると後から来た人が、「こんにちは」と声をかけてくれた。私たちも、「こんにちは」というと、「春の山はやっぱりいいですね」と、またその人が言葉を返してくれた。
たったそれだけで、私たちの心が開かれ、旧知のように親しく山の話などをして別れた。
嬉しいことに山頂でまたその人に会い、大きな岩が今にも落ちてきそうに見えるので、弁慶が七度も思案をしたとの伝説のある弁慶七戻り石や屏風岩、そのほかにも北斗岩等珍しい岩がたくさんある所を案内していただき、楽しい思い出をいっぱい持って帰ってくることができた。
散歩道などで筑波の雄姿を見る度に、その時のことを思い出し、同時に、山で交わしたような挨拶をいつも交わすことができたらどんなにいいだろうと思うのである。
御茶ノ水の桜 松下勝章
この春、有難いことに御茶ノ水で桜が咲いた。次女、光歩が御茶ノ水のT大学医学部看護学科に入学したのだ。
入学式の記念に、家内と次女、そして私の三人で写真を撮ったのだが、ここに至るまでには、ちょっとしたエピソードがあった。
彼女の当初の志望は医学部。小さい頃から、学校、試験、塾…と励んでいた。偏差値と睨めっこしながら、黙々と花咲く日に備えていたのである。しかし、医学部の門は、やはり狭く、家計事情、学力、浪人回避…そんなこんなを検討すると自宅とはかけ離れた地方の他県の大学が主の指し示す『路』であるかと思われたのだった。願書を提出し、受験日まで決まり、受験場下見の当日、飼い犬のチワワ『あん子』が危篤状態になるという『小さな大事件』が発生。七転八倒、紆余曲折。
「医者になる」という想いが、急遽「看護師」に方向転換。奇しくもお茶の水で、パッ~と花を咲かせた。これも摂理なのだろう。
イースターに受洗
荒井 文
母の命と引きかえに、わずか八カ月で生まれたのが七十四年前の春でした。三日後に母は天国へ旅立って行きました。クリスチャンでした。私のために一粒の麦になったのです。
新しい両親に引き取られ、恵まれて育ちました。養父が転勤族だったので転校ばかりしましたが、養父母亡きあと知人に引き取られ、ミッションスクールに通うことが出来ました。そのことは生母の祈りでもありました。そこで神様と出会ったのです。
間もなく、実の祖母と巡り合い、生母の死と自分の誕生の様子を聞かされ、母の命の犠牲の上に私が誕生したことを知りました。母こそキリストの愛を実行した人です。
私もそのようなクリスチャンになろうと決心し、二十歳の春、イースターに洗礼を受けました。母から命を受け継いで、新しく生かされている私です。
『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである』(ヨハネ十二・24)
桜便り 志田 雅美
上野公園の桜が満開らしい。連日花見客で賑わっているそうだ。ニュースキャスターが笑顔で言った。今週末がピークでしょうと。
だからなんだというのだ。忙しくてそれどころではない。まるで車にガソリンを入れるように、胃袋に食べ物を流し込んで立ち上がった。背中を母の言葉が追いかけてきた。
「明後日から日光に行くの。おみやげ、なにがいい?」
「おんせんまんじゅう」
投げ捨てるように言って職場へと急ぐ。花見も旅行も私には無縁だ。それなのに、「おみやげ」の言葉には敏感に反応するのだから、我ながらおかしい。
こんな私でも花を美しいと感じる心がある。その心を失わないでいられるのは神さまのおかげだ。
なにはともあれ今年も桜が咲いた。上野に出かけなくてもどこかで会えるだろう。その時は神様からいただいた心で楽しもう。
聖書への道 三浦喜代子
小学五年生の新学期、新しい担任の青山先生は、教室の前の入り口のすぐそばに小さな本立を置いた。若く美しい先生だった。
三冊の本が並んだ。先生は「学級文庫を作ります。教室の中だけで読みましょう。外や家に持ちだしてはいけません」と言われた。
目に、黒い脊文字が飛び込んできた。『ああ無情』、『宝島』、『岩窟王』とあった。昭和二十六年春のことである。
本は毎月増えていった。真っ先に借りたくてうずうずした。読み終わると次が待ち遠しくてたまらなかった。借り手がないと何度でも読んだ。
中学三年生の春、妹が手のひらに乗るほどの真っ赤な表紙の冊子を見せた。『ヨハネ傳』と書いてあった。日曜学校でもらったという。もぎ取りたいほど欲しかった。夏休みのある日、私は一人で教会に行った。そこで、本の女王、ぶ厚い『聖書』に出会った。
以来六十年、聖書は私を虜にして離さない。
故郷「由良」の春 山下 邦雄
象徴派詩人・薄田泣童に、私の故郷「由良」を盛り込んだ次のような詩がある。
『春の夜はしづかに更けぬ、はまゆ路の並木のけぶり、箱馬車は轍をどりて、宮図より
由良へ急ぎぬ』
宮津を中心とする丹後の地は、古代から発展したところで、浦島伝説・羽衣伝説が生まれた。私はこの「由良」で生まれ育ったこと(高校卒業まで)をとても誇りに思う。
丹後海岸の美しさは天下一の絶景,殊に箱馬車が走った宮津から由良にかけての早春の息吹は今もひしひしと感じることがある。
春休みともなると海岸は「フクラミ」を膨らして遊ぶ女の子であふれ、また「メバル」釣りや「穴釣り」漁で賑わう。この恵まれた自然に畏敬の念を抱き、損なわれなきよう努力を惜しまぬ故郷の人々に脱帽である。
私にとっての春、それは紛れもなく故郷「由良」の春である。そしてこの春を与えて下された創造主への感謝で心が溢れる。
初めての春 山本千晶
あれは九月末、土曜日の夜のことだった。
十月の合唱祭で演奏するために中学校のお母様方が学校の音楽室に集まっていた。指導を任された私は次第に強まる風の中、一つのことを繰り返し祈りながら音楽室に向かった。
その日、練習直前に電話が鳴った。「始まったみたい」娘からだ。予定日を二日過ぎ産院の診察を受け帰宅し始まった陣痛。痛みの間隔から入院するにはまだ時間がかかりそう、と言う。私は娘の出産の無事と自分の心を落ち着かせ指導に専念できるように祈った。
祈りの中で練習は終わった。そして私は無事、娘に伴って産院に向かうことができた。
明くる日を迎えて間もなく、初めての出産を終えた娘は女児の母となった。
三月。あの日合唱祭を一緒に過ごしたお母様方は我が子の卒業式を迎えた。娘とその赤子も初めての春を楽しんでいる。ころんと最初の寝返りができた日にほころび始めた木々の蕾。今、次々に満開になろうとしている。
こころに満ちて 西山純子
私の所属する教会の前牧師は、八十六歳の現在も引退牧師ではいらっしゃるが、そのメッセージ論旨の明確さ、語り口と声量、凛とした姿勢には折々感慨深い思いをいただく。
先生のお好きな讃美歌は多いそうだが、先日、春になると、嬉しく口ずさみたくなる讃美歌をご紹介下さった。讃美歌五三三番三節
春ののどけさは/こころにみつ/とりは声きよく/花はかおる/ああ主よ、わが主よ/かがやくみすがたを/ 胸にうつすとは/わが主の恵み
日頃、何気なく讃美させていただいていた讃美歌の中にも、先生の歩まれてきた歳月の中での、言葉には尽くせない想いや祈りが、それぞれにおありなのだろうと察せられ、新たな思いでこの讃美歌を歌わせていただいた。
いま、此処に置かれている恵みに感謝したい。そしてこれからも、小さなことに気づける豊かな感性と、御言葉に聴き従う柔軟な心の信徒としてさらに導かれつづけたい。
蝶とわたし 青葉亜樹子
小学四年生の暖かい日の朝礼に、一匹の大きな蝶がヒラヒラと、私たち生徒の頭上にとびこんで来た。校長先生の長い話に飽きていたので、みんないっせいに蝶に手を伸ばした。が、蝶は逃げて行こうとはしなかった。
一瞬、私は自分の息をひそめて、暖かいそよ風に静かに合わせ、校庭の花や木の様になってみようとした。
すると、蝶は私の頭上に止まり、次にひらりと肩に止まって羽を休めたのだ。生徒たちはもう誰も蝶を捕まえようはしなかった。
教室に戻って席についてからも、蝶はずっと私の肩の上に止まっていた。手を添えると、今度は手の上をよじ登って来た。
私は窓際に行って外に手を伸ばして振り払った。蝶は身体を大きく広げ、ゆうゆうと飛び立って行った。その優雅な姿が羨ましかった。行く先は危険の多い世界だろうけれど、いつまでも美しく舞ってほしいと祈りたい気持ちになった。
春の日の花と輝く 石垣 亮二
わが愛する師、病に倒れ
苦難と痛みに耐えて
静かに神への祈りを捧ぐ
その姿、わが目に浮かぶ
ああ神よ、再び汝の奇蹟を与え給え
今ある我らは
この師の貴き代え難き賜物
謙遜とキリスト・イエスの人格を
我ら受け継がんとする希望と恵みを覚えれば涙あふれて汝へ祈る
再び汝の奇蹟を与え給えと
師の若き日に
十字架の宣教のために
汝が与え給うた人生の伴侶に
「愛はなお緑いろ濃くわが胸に生くべし」
との約束を、今為さしめ給え
春の日の花と輝く
その奇蹟を、今与え給え
春 ボストンバック一つで 長山 知子
人生の四季を思う時、私は今年七十六歳になる父、柴田幸士を書きたいと思った。
昭和三十一年、高校を卒業した父は、大分県より二十四時間かけて上京し、日本大学理工学部建築学科(Ⅱ部)に入学した。Ⅱ部とは夜学のことで、昼間は親類の国会議員の書生として働き、学費と生活の面倒を見てもらっていた。
ある日、大学がある御茶の水を歩いていると、外国人に映画を誘われた。映画が終わるとその人(米国人・シュワーブ宣教師)がキリスト教の話を個人的にしてくれた。父にとって二十歳になるまで聞いたことのない話だったが、この教えこそ自分の人生に必要なことだと確信した。
父は牧師になるため大学を辞め、聖契神学校に入学した。学費と生活費を得るためリグマーク校長の紹介で真珠商会で働くことになった。時は東京オリンピックの年。神との出会いで人生は活気に満ちていた。
「熊谷から秩父線で」 長谷川和子
長瀞駅を背に宝登山に登るなだらかな坂道をゆっくり歩いてロープウェイ乗場へと向った。道々、民家の庭に福寿草が咲いている。
今冬は厳しい寒さ故春の当来はまだかと思っていたが忍び足で来ているではないか。宝登山には何回も来ているがいつも寒風に震え上がっていた。しかし今回は無風、陽も雲に見え目隠れする天候に安らぎを感じ、ろう梅香る坂道を登り降りつつと散策した。
青空をバックに黄色が一層映え、香しい空気が日々の心労を払拭してくれるかのように心地好く身に浸みた。
遠くに秩父連山、その奥の武甲山もはっきり見える。
「われ山に向かいて目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか」口をついて出たこの詩編の言葉に慰められ、酒乱の父との生活に失望しつつ、山を見上げては助け人の出現を願った頃のことが走馬灯のよ
うに蘇った。
七年目の卒業式 土筆文香
黒いガウンを身にまとい、角帽をかぶった私は、卒業証書を受け取っていた。
乳癌を患ったとき、生かされている時間は限られていると、当たり前のことを自覚した。
それまで神様から与えられた時間をなんと無駄にしていたのだろうと思った。
自由に使える時間を神様に捧げたいと思い、お茶の水聖書学院に入学した。通信の学びは神様の恵みを受ける祝福の場となった。
難しいと思っていた旧約聖書にはイエス様を示す言葉や出来事がたくさん書かれていた。反逆の民イスラエルは、神様から心が離れていた自分のことだと思った。神様に背を向けて歩んでいた私をじっと忍耐して待って下さった神様。ホセアが裏切った妻ゴメルを赦したように神様は私のことも赦し、戻って来るのをじっと待っていて下さったのだ。
夢中で学んでいるうちに単位が満たされ、二〇一三年の春、七年目にして卒業式の日を迎えた。神様が成し遂げさせて下さったのだ。
山はみどりにして青 島本耀子
三寒四温を繰り返しつつ春は来る。氷雨の時は過ぎ、花咲き、鳥歌い、山の緑は萌え、旧約聖書にある雅歌の世界が展開する。
古来より、四季を表すに相応しい色がある。春は『青』である。山の翠、空も海も青という。何処にいても希望の春は来ると思っていた私だが、『人間到る処青山あり』と詠う漢詩の『青山』は、墓を意味すると知って驚いた。
緑深い山は生き物をはぐくみ、未来への望みを繋ぐ。人はその置かれたところで懸命に生き、終わればよいのだと、私は解釈した。墓は蘇りの通過門である。
懸命に生きてきたつもりだったが、可能性に満ちた若い日は、安閑と過ごしてしまった。
だから、残された人生をより充実させ、そんな思いは振り払ってしまいたい。過去には様々な苦難があり、平穏な喜びの時もあった。
まだ何か起きるかは分からないが、生かされて在る限り、聖書のみ言葉をより深く知り、感謝をもって、キリストを証していきたい。
温もりのある視点 富岡国広
小学生になった当初から登校拒否をくり返す私に、母は知的障害者の学校へ「行がせるしかねえよ」と脅した。
ところが私は三十になってすぐの頃、陰で足の不自由な人に対し差別的な言葉で揶揄していた。知的障害者も足の不自由な人も、なりたくてなった人など一人もいないはずだ。
聖書では、みなしご、やもめ、在留異国人、つまり、社会的に弱い立場にある者にこそ、憐れみの手を差し伸べてあげることが一貫して語られている。
なのに、私は救われた後でも、中々その視点に立つことができないでいた。春の柔和な陽ざしにも似た温もりのある視点に、である。
過去の自戒も含めて、改めて私自身問われる事になるだろう。神なる主の「しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」のお言葉に真摯に聞き従うのかと。曖昧にしてはならないのだ。
五月は私の月
槇 尚子
私は五月生まれである。
寒い冬の後、一気にあたりが明るくなる。
子どもの頃、質素な家庭だったが、誕生日は特別うれしい日だった。母が好物のちらし寿司を作ってくれたからである。かんぴょうや椎茸や人参が入ったすし飯にたっぷりの錦糸卵は何よりのごちそうだった。お食後の苺も五月ならではのもの。今では苺は一年中出回っているが、春のものが一番おいしい。
誕生日に両親はいつも同じ話をした。私が三歳の時に大病をして、熱心な祈りと医者の手当てで回復をした話である。
「神様助けてください、と徹夜で祈ったの。ヤイロの娘の親のように」
神様はご用あるからこの私を生かして下さったといつも付け加えた。この話は毎年するので、いつの間にか私の中に深く刻み込まれることとなった。何のために生きているのかと問う時、父と母と幼い私の食卓が浮かぶ。
私はヤイロの娘である。