零下十度の世界で 安東奈穂美
北海道には漠然と憧れを抱いていた。キリスト教主義の女子高に進学したのは、就学旅行が北海道だったからという理由もあった。
牛を見て歓声をあげ、広い空や紺碧のオホーツク海に魅せられてから二十年後、三人の子供の母となって五人家族で夏に旅行した。
その数年後、夫の転勤で思いがけず札幌へ。北の冬は、夏とは全く別の姿で迫ってきた。大阪育ちの私には、苛酷なものだった。
粉雪が風にのって横に流れる。時には、足元からも舞い上がる。雪に覆いつくされた一月、しばらく早天祈祷会に通った。
早朝、氷壁に囲まれたような冷気の中に立つ。自分の存在が無きに等しく、消え入りそうに感じる時、胸にかすかな声が聞こえる。
「あなたを愛している」
零下十度の世界で心の中に温かいものがそっと置かれる。天地の創造者と結びつけられているのだと、自分の存在意義を改めて見出すのである。
シメオン爺さん 曲山迎主(遠藤幸治)
『春には活かし/夏には育て/秋に足らわせ/冬休まする』。古い讃美歌四二四の歌詞の一部だが、四季折々の神様の恵みを感じさせる讃美歌の一つで大好きである。
「冬休まする」とあるが、寒い冬、炬燵に籠り、自分の辿ってきた八十年の道のりを振り返っている。透析の身になって二十年過ぎたが、これは神様の憐みと言う他ない。
人生の仕上げの段階にきて神様からのご褒美なのだろうか、昨年結婚した孫娘に新しい命が誕生し、ひ孫(まな)を抱けるなんて……。何だか天使が舞い降りてきたようで、可愛くてならず、神を畏れ、天を仰ぐのみである。
主のご降誕のとき、シメオンというお爺さんが登場するが、救い主を待望し、その夢が叶い、聖なる御子にお会いし神を称えている。
『シメオンは幼子を抱き、神を称えて言う。
主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます』。ルカ二章二九節
山茶花(さざんか)の思い出 亀井正之
父の家の西側の道に面した所に一本の大きな木があった。幹は灰色でゴツゴツと無愛想でただ上に伸びていた。葉も枝も見えなかった。しかし祖母は、米のとぎ汁をバケツに入れて「水をやれ」と言うのである。私は小学生であったが、その頃の冬はとても寒く外に出るのがいやだった。私は生返事をして言うことを聞かなかった。祖母は独りでその変な木に米のとぎ汁をやっていた。
しかしあるとき偶然その木の花を見た。とても大きな一重のピンクのきれいな花であった。花芯は鮮やかな黄色である。そんな美しい花がその無骨な木に咲いていることに驚いた。その木は上の広い空間で葉をつけ花を咲かせていたのだ。
その花が山茶花という名前だとわかったのは丹精していた祖母が死に、家を建て替えるため木が切り倒された後であった。
「主を求めよ。お会いできる間に」(イザヤ書)
花の父母 駒田 隆
冬という言葉を聞くと、何となく暗いイメージが湧いて来ます。寒さと、どんよりした空を考えるからでしょうか。でも、そんな時に、雪の下で紅梅が咲き出すと、ああ、もうすぐ春だな、と希望がわいてきます。
菊は、四季の中で最後に咲くことから、花の弟と言われますが、梅は、四季の初めに咲くので、花の兄と言われ、わたしたちに、望みを、春への望みを届けてくれます。
神さまは、わたしたちに、四季折々の花を咲かせて、そこに安らぎと希望を届けてくださいました。栄華を誇ったソロモンでさえ、野の花一つほども着飾っていなかった、と言われる野の花をも届けてくださる方です。
花の父母と言われる雨露は、じっと土の中で寒さを耐えている野の花にも、惜しみなく雨露を注いで花を育てています。ましてや、神さまの愛は、わたしたちに、今も、豊かに注がれているのではないでしょうか。わたしたちが、冬の時にあると思っていても。
必要な道 山本千晶
新年早々、我が家は間近に迫ったリフォームのための準備を始めた。
室内の整理に取り掛かるのは夫と私。不要な物を選別する作業が始まった。共通に残しておきたいものは子どもの成長と共に増えてきた思い出の品。楽しい思い出に浸りながらついつい語らってしまいなかなか片付かない。
「私たち二人のそれぞれの私物はどう?」と互いに問いかけ片付けることにしてみた。「これあの時の記念の品、大事ね。」「あ、そう。」なるほど夫の大切なものは学生時代の思い出の品が多いようだ。私は、いつか子どもたちが使ってくれるか、と思われるものを中心に残していった。やがて空間が広がってきた。そこに『待ってました』とばかりに真冬の風が吹きこんだ。風の通り抜ける道が生まれたのだ。
将来、子どもたちが、目には見えない大切なお方を見つけ出すために必要な道が備えられた気がした。
肝心要 長谷川和子
その日の朝は身震いするほど寒かった。 カレージから石油タンクを運ぶのだが、持ち上がらない。気合を入れ、階段に一段ずつ置いては休み、やっと二階のリビングへ運び、「やれやれ」と点火した。
家事をこなし夫の病院へ付き添う。帰りは娘が夫を自宅へ送り、私は薬局で処方を待ち、徒歩で四十分。途中から歩行に違和感を覚えつつ家に着いた。
間もなく強烈な腰の痛みに襲われた。体勢を変えても楽にならない。立ち上がる時には「ヒャー痛―い」と声が出た。医師からは「安静に」と言われたが、難病の夫の世話と家事を「痛い、痛い」と言いながら、腰を落とした姿勢でやらざるを得ない。悲鳴は「ウッ」と呻きに変わり、四か月経った。
夫の介護の度に痛む腰をさすりながら『あなたがたの体は神の宮であって』を思い出す。
神様から与えられたこの体を過信せず、「若くはないのだ」と肝に銘じたことである。
雪が与えてくれたもの 佐藤晶子
横浜から主人の郷里、岩手県に移住して三年が経つ。十二月を過ぎると気温は一段と下がり、里山も町も白い世界が広がっていく。
寒さには驚かなくなったが、慣れない雪の扱いに嫌気がさして些細な事に不平を言うことが多くなった。しかしよく考えてみると、白い地面の下では沢山の植物や昆虫が力を蓄えているのだ。
ある朝、まだ太陽が昇る前に、応接間の窓を開けて庭の方に目を向けた。数分後、視線の彼方から一筋の光が真白な雪の上を走って私の元に来た。
光の当たる明るい方を見ると、寒く不毛な季節にも、神様は、私達に確かな希望を運んで春を備え、さらに忍耐の訓練も与えてくださっていることにも私は気づかされた。
『すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。』
(エフェソ五章十三、十四節)
たき火の温もり 山本披露武
小学生のころだった。近所に親切なおじさんがいて、冬になると毎朝たき火をして待ってくれていた。ぼくたちはその火を囲んでワイワイガヤガヤ。「煙あっちいけ火の玉こっちこい」などといって時間がくるまで戯れ合い、顔を真っ赤にして学校へいった。
たき火の周りに集まったのはぼくたちだけではない。通りがかりの知らない人なども、「ちょっとあたらして」などといってやってきては楽しそうに大人同士で世間話をしたり、親しくぼくたちに語りかけてくれたりもした。
といっても、「学校は楽しいか」とか、「大きくなったら何になりたい」といった程度の話で、内容まで思い出すことはできない。
けれども、たき火の温もりや人の心の優しさは今もしっかり残っていて、生活の疲れで荒みそうになる心を癒し支えてくれている。
今では殆ど見られなくなった光景だが、少年時代に優しい人達との出会いに恵まれた事も主のお導きと思って今も感謝している。
初春の旅路 松下勝章
この正月、家族と伊豆へ旅した。途中、箱根に立ち寄った。「箱根駅伝」の前日だったこともあって、テレビ局の撮影機や垂れ幕が並んでいる。
(ああ、明日になれば、この路を彼らは、母校の栄誉のために走るのだな…)そう想った。一年で一度の行事、「箱根駅伝」。その時間のために、学生達が備えている。夏の暑い日も練習し、食事を管理し、黙々と…。
箱根を後にし、伊豆へ向かう。熱海で一泊し、南伊豆へ。途中、どういうわけか、対向車線が渋滞になっている。どうも、初詣に向かう車のようだ。私たちは、気にせず、南へ南へと向かい、伊東を通過し、下田へ向かった。アメリカと日本の接点、下田へ。車の窓には一面に海面が拡がる。陽光に輝く波が、海の上で、光の路を描いている。
下田に着き、町並みを眺め、古の米国人の歩いた路を歩き、祈りを捧げ、家族とかの晩餐を想いながら食事を囲んだ。
わたしの冬の時代 荒井 文
長男が八カ月の時でした。食事の支度をしている時、鍋の湯をかぶって大やけどさせてしまいました。
当時電話がなくて救急車を呼べず、夢中で裸の赤子をタオルにくるみ外に飛び出すと、通りがかりのタクシーが病院まで行ってくれたのです。
頭から熱湯をかぶったので、植物人間になるか、脳性まひの障害者になるか、あるいは命を落とすかも知れないと宣告されました。しかし、九死に一生を得ました。
息子はやけどの後遺症は残りましたが、結婚して子供の父になり、この春には祖父になります。私は曾祖母になるのです。
あの時の医師の言葉には衝撃を受けましたが、当時クリスチャンになりたての私は、この試練を通して強く生きる者としていただきました。神様は信じる者を必ず助けてくださることを知りました。
今は感謝の日々です。
警鐘 志田雅美
南岸低気圧は別名爆弾低気圧ともいうらしい。なるほど。ここ数年関東平野に爆弾のような大雪を降らせている。
仕事柄天気が気になる私は、携帯サイトの天気予報をこまめにチェックしつつ、はらはらしながらの移動を余儀なくされた。昨年は大雪の中ノーマルタイヤで出発した同僚を助けに駆けつけ、ぜいぜいしながら車を押すという悲惨な体験をしたばかりだ。なぜこんなにたくさん雪が降るんだろう。地球温暖化のせいだと専門家はいうが、私には温暖化なら雪なんて降るはずがないとしか思えない。
いずれにせよ、人間が招いたことだ。暮らしが便利になったぶん自然が破壊され、便利な暮らしに慣れたぶん、人は傲慢になった。
今週も南岸低気圧が関東沿岸に接近するらしい。私には、これが神さまからの警鐘に思えてならない。
冬・新しい時代へ 長山 知子
雪が降り積もる中、父の足跡が付いて行く。一つ、二つ、三つ、それに続く家族と教会員の足跡も。
教会も四十周年を迎えたころから、教会の宣教は永続することが御心だと祈り求めていたところ、五年後に日本同盟基督教団への道が開かれ、新しく牧師一家を迎えることができた。今までは借地の教会堂だったが、歩いて二分のところに以前より購入していた百二十坪の地に三度目の新会堂が建った。屋根の上に着いている十字架と、玄関に着いていた銅板プレートとステンドグラスは、移築することができた。
父も七十六歳、協力牧師となり、ギデオン協会沼津支部のチャプレンの任務を受けた。「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したことも無駄ではなかったと誇ることができる」(ピリピ二・十六)四十周年記念誌に父が書いたみ言葉である。
父の元旦 三浦喜代子
父は私の隣りで頌栄を歌っていた。いつになく朗々と歌った。元旦礼拝のことである。
なんて元気なこと。この分では今年も健康だわと私は軽くうなずき感謝の祈りを捧げた。
帰宅して軽い昼食。父は鼻が詰まったのか、しきりにティッシュを当てて力んでいた。その後はいつものように自室で午睡した。
夕方からは恒例の新年会である。三々五々親族が集まってきた。
「おじいちゃん、皆さん揃いましたよ。起きてきて」父の部屋に向かって声をかけた。いっこうに返事がない。母が迎えに行った。
「たいへんだよう おじいちゃんがっ」
母の絶叫が聞こえた。母は父を抱き起こそうともがいていた。父はだらりとなすがままで、声もなかった。まもなく、子どもたち、孫たちに囲まれて救急車に乗った。
手術不可能な脳出血であった。三週間昏睡しそのまま天に駆けていった。八十六歳の父を、神は御国の門口で迎えられたに違いない。
生きている 西山純子
空を見つめるのが好きだ。
秋の空も見とれてしまうのだが、冬の澄み切った怖いような空には敵わない気がする。
私は十月になると、毎年日本福音学校秋の研修講座で一ヵ月半、火曜日ごとに早朝千葉の会場へ同窓会幹事として、準備、受付、司会など奉仕に通う。学びと導きの多い講座で二十数年になる。閉校式の後、反省会があり、それから決まり事のように私は喉から始まり体調を崩す。
その不具合は延々と続く。時にはクリスマスまで。その中で最小限外出をするのだが、その折に見上げる空は私の萎えていく命への呼びかけ、喚起に見える。その計りがたい力だけが、この空を見つめる時だけが、命の脈動を感ずるとさえ思える。
体調のしんどさには参るが、この冬の混じりけのない空を味あわせていただけるのは、病んでいる者への励ましとしか思えない。
健康乏しき者は幸いである
雪の結晶 青葉亜樹子
十七歳の冬、私は北海道朝里川でスキーを楽しんでいた。父の友人が小樽市に住んでいたので、毎年家族で数日間を過ごしていた。
粉雪が舞い上がり、木の枝は樹氷となって日の光にキラキラと輝いていた。
美しい光景にうっとりとしていたら、大きな牡丹雪が降り始めた。
グローブの上にゆらゆらと降りて来た雪を見て驚いた。それは肉眼で見る雪の結晶であった。顕微鏡でしか見ることが出来ないと思っていたものだった。
バラの花弁の様に降りてくる雪は小さな結晶の集まりであった。その一つ一つは個性豊かで、一つとして同じではなかった。
私は、グローブを外して手のひらの雪を見つめた。まるで万華鏡をのぞいたようであった。しかし、手が温かいせいか、みるみる溶けて消えてしまうのだった。
目に見えにくく美しい物ほど、はかなく尊いことを知った冬であった。
小さなスキー場 石垣亮二
私が育った夕張市鹿島地区は道内でも積雪量が多く、朝には玄関から道路までのわずか五~六メートルの雪かきは、結構大変な作業だった。終わる頃には汗をかいていた。
私は大学受験に失敗して浪人二年目を迎えていた。小さな町だったので、昼間は人に会うのが嫌でめったに外出はしなかった。そのため、もっぱら夜の食事を済ませた後、家からすぐ近くで裸電球が五つ六つしか備えていないような小さなスキー場へ出かけた。
家の中での受験勉強から抜け出して、夢中でスキーを滑って、ほんのりと汗ばむまでの時間は、私にとって何よりの息抜きの時であり、至福のひと時でもあり、当時のかけがえのない楽しみでもあった。
年が明けて春を目前にして、私は希望するミッション大学へ進学することが出来た。両親や家族に感謝したことは言うまでもないが、今では大いなる神のご計画・摂理だったのではないかと心から感謝をしている。
終わりのない冬はない 土筆文香
中二の毎日は終わりのない冬のようだった。
いちばん辛かったのは、二十分の昼休み。友達のいない私には居場所がなかった。ひとりでいるところを誰にも見られたくなかったので、図書室に行ったり、校舎の周りを歩いたりしてチャイムの鳴るのを待った。
三人連れのクラスメートに何度も行き会って恥ずかしくなり、トイレに籠った。
「長いな。誰が入ってるんやろ」
ふいに外から声がした。出るに出られない。どうしようと思ったとき、チャイムが鳴った。
その後、空想することで人目を気にせず時間を過ごせるようになった。ストーリーが生まれた。書き留めたら原稿用紙一三〇枚にもなった。作家になろうと決心した。このことが私に生きる意欲を与えた。作家になるために本嫌いだった私が片端から本を読み始めた。
その後、一冊の本をきっかけとしてキリストと出会った。本嫌いのままだったら出会えなかっただろう。終わりのない冬はない。
冬の眠りの中から 島本耀子
冬には大方の生き物が活動をやめ、風雪に耐えて生きるのだと、私は思っていた。だが、「なまけ者は冬には耕さない」と、箴言二十章に書いてある。春に土を起こし夏から秋にかけて収穫するのが一般的である。当たり前なことだけをしている人はなまけ者なのか。
戸外では冷たい雨が乾いた土を潤している。椿は固くつぼみを閉ざしたまま、春の開花の時を待っている。土の中で冬を越す虫や獣は、ひっそりと生き続けて子孫を伝えて行く。
冬の別名は玄冬。「玄」は土の色に近い黒である。土は命を孕み、育んでくれる。すべての季節は、冬から始まるのではないだろうか。
怠け者にならないために寒さを堪え、人は何を耕すのか。「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と、ヨハネは言う。冬籠りの中でも本を読み、その時に備えたい。
いつでも、唯々主を見上げて己の内を耕し、朽ちない命に至りなさい。と、箴言は教えてくれているようだ。
永遠へのあこがれ 富岡国広
年の終わりから三月にかけての寒い季節。
私には特別な思い入れがある。二月生まれだからというのではない。それを意識するようになったのは、いつの頃だったろうか。大人になってからであるのは確かだ。
アウト・ドアの苦手な私には、千葉の草深い地で暮らした幼い時分の堀ごたつにたまらないなつかしさがこみあげて来る。
それと、猫。白猫などは、炭火にすっかりあてられ、耳などぽっと赤みがかって、まるで酔っ払いみたいに堀ごたつの中から出てくる姿が脳裏に浮かぶ。
寒さに耐える一方で、そうした季節であればこそ味わうことのできる、堀ごたつと猫のいる風景。厳しい寒さというだけではない。
老いて尚今もくり返される四季を思う中で、心に芽生えた永遠へのあこがれ。
どう言えばいいのだろう。冬なる季節をもつくられた神さまの妙。そのことに思いを馳せると、私の心は熱くなる。
寒さの中で知った
槇 尚子
そのころ、私は小学校教師の仕事と母の介護で、余裕のない生活を送っていた。そのバランスが崩れたのは、母の転倒骨折だった。入院、手術そして痴呆で寝たきりと、まるで老人病の教科書の例のような経過をたどり、施設暮らしが始まった。施設と病院を往復する母の後を追って、私は学校の帰りに母のところに立ち寄る生活を二年間続けた。
古風な誇り高い母だったが、年をとればどんな人も子どもに帰り、言葉を失っていく。そんな母を見舞うのはつらかった。家に帰るのは夜遅く、次の日はまた朝早くから出勤、寒風の中で自由な時間はほとんどなかった。
疲れきって荒んだ私を心配して友人が手紙をくれた。「なぜ祈らないのですか。イエス様に」その言葉にはっとした。そうだった。私を母を守ってくれるのは神様しかいないのだと。娘の努力などたかが知れている。「汝ら雄々しかれ。我すでに世に勝てり」その言葉にもう一度立つことができた。