神との友情――あなたを変える祈りーー
もう10年も前に読んだ書ですが、今回また霊性に関するものを読み返しています。目下、本書を精読中です。引きつけられ心に収めた箇所をそのままピックアップ、あるいは要約していきたいと思います。367ページの及ぶ大作ですので終わりまでたどり着けるか、断定はできませんが、祈りの世界と同様に未知へ向かって冒険の旅をしたいと思います。
目次を掲げます。
序文
第一部 祈りがなければ
第一章 祈りと格闘する
第二章 祈りの傷害を克服する
第三章 祈りの生活に入る
第二部 聖書の領域を探求する
第四章 旧約聖書の祈りの探求
第五章 聖書の祈りを生きる
第六章 聖書――祈る人を造り変える友
第三部 神のふところに入る
第七章 イエス・キリストとの友情
第八章 父と子の友情を深める
第九章 聖三位一体の内にある友情
第四部
第十章 パウロの祈りの生活と友情
第十一章 神の友たちによる祈り
第十二章 祈りの共同体
第十三章 共に祈るために
序文から
祈りとは努力してものにする霊的修行のように考えていたが、初代教会の教父アレキサンドリヤのクレメンスの言葉「祈りとは神との友情を育てること」に出会って、神に立派な祈りを捧げようというより、祈りの生活の中で神と交わろうとする姿勢が育った。
祈りは私たちの神理解と実際の生き方の大きく左右される。私たちが深いところで神をどのようなお方として知り、経験してきたかによる。「君の神がどのようなお方を話してくれたら、君がどう祈るか、見なくてもわかる」
キリスト教の祈りとは、父なる神に対して、御子を通して、聖霊によって祈るものと定義する。
キルケゴールは「祈りは神をではなく、祈る者を変える」といった。私たち自身がまったく別人とされていくために「あなたのみこころが行われますように」といのるのである。
神との友情――あなたを変える祈りーーその2
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
本文に入っていきます。
第一部 祈りがなければ
第一章 祈りと格闘する
あなたの心の扉を見つけよ。
そうすれば、
そこが神の国の扉であることを発見するであろう。
ヨハネ・クリュソストモス(四世紀の説教者)
私たちはどうにもならなくなって初めて、「祈ること」をどれほど真剣に捕えるべきかが分かる。
祈りによって自分が変えられること、もう一度生れ、神に育てていただけることを経験する。
祈らない言い訳として最初に考え付くのは、忙しすぎる、です。これは正当な理由ではない。
神との交わりや人間関係よりも、自分の職業、経歴、専門で自分のアイデンティティーを保つことができると思い込んでいるからです。ワークホリックは中毒症状を生み出す。
忙しさは内面の不安の表れです。何を優先して生きているのかを反映しています。
「祈れ、そして働け」とは中世の修道士たちのリズムです。
祈りを通して与えられる自己理解は、謙虚さを要求します。自分の倫理的現実を直視するとき、謙虚にさせられます。人間が神の義と聖の前に立つのは、自らの罪の現実に直面することを通してです。謙虚であるとは、自分の道徳的弱さ、すなわち自分の生活の中にある悪をどうすることもできないという現実に気づくことです。そのような状態を悔いて神に立ち返ることを意味します。
祈りは、自分の罪深さ、いかに自分が神を必要としているかを、知らせる形で迫ってきます。祈りは、神から直接学びたい、みことばの黙想を通して深く学びたいという願いを抱かせます。
神に対する思い(心)を持つことは、自分の人格の中心に神を迎えることを意味する。それによって私たちは神のかたちに形作られ、成長していくのです。
祈りは「する」ものではない。思いどおり神を操作して力を得るための呪文ではありません。祈りとは、神ご自身に心が向くように、内面が変えられるのです。
神との友情――あなたを変える祈りーーその3
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第二章 祈りの傷害を克服する
心からの祈りがなければ、それは宗教ではない。 アウグスト サバティカル
祈りを通して、私たちの内なる生活はキリストの心に倣うものへと造り変えられていく。
★私たちの傷と祈り
多くの人が豊かな祈りの生活を味わえないでいるのは、愛を知らなかったり、子ども時代に愛されなかったり、怒りをため込んで傷ついている、つまり、人間関係から受けた傷のせいです。
祈りに行き詰るのは、隠れた痛みや失意や怒りが原因になっている。それは、神や祈りに対しても理解をゆがめてしまい、不満だらけの祈りの生活になってしまいます。
神がキリストにあって私たちをどれほど深く受け入れてくださったかを感情のレベルから知り始めると、自分も自分を受け入れるようになる。何かをしたからではなく、神によってすでに赦され、受け入れられているからです。自分自身の根源、心の奥底で傷ついている小さな子供の自分に戻る時、イエスは小さな子供の私たちに直接語りかけてくださいます。
私たちの内側にいる、悲しみうろたえている子供は赦しを与えるイエスの愛を経験すると、自己防衛の壁は取り除かれ、私たちの心は、神の愛、親密さ、受容に完全に開かれていきます。そうなると祈りは新しい現実味を帯び、深い癒しがもたらされます。
★行動主義者の祈り
多くの人は何事かを達成しようとする抑えがたい衝動をもっていますが、達成を目指す人はどんなに努力をしても祈りにおいては必ず失敗します。人間関係でもでも失敗します。行動主義者は思い通りに事を進めようと行動するが、祈りは「待ち」の姿勢が必要とされるからです。
人にも自分にももっと時間と余裕を与えるならば、神にもあなたの心に働きかけ、あなたのやり方を変え、あなたに希望をもたらす余地を与えることになります。神に聴くのをやめる、それはいきるのをやめることです。
★神への不信
私たちは自分だけが知っている詩文の姿が大嫌いです。この仮面の下の現実を他人にはチラリとでも見せたくないのです。それに慣れているとしたら、人はいつ、どのようにして神にありのままのじぶんをさらけだすことができるでしょう。
真に自分が誰であるかを知るためには、神に信頼するほかにないと認識するところから始まる。真に自分らしく生きるにはどうしても神の助けが必要だとの認識に至れば、祈りをもっと真剣に捕え、一日を神とともにスタートし、その日、あらゆることについて祈りの内に思いを巡らすようになります。人生には答えが分らない、あるいは自分の知恵では切り抜けられない領域がたくさんあることが分ってきます。祈りによって私たちは自分自身を神の御腕の中に投げ出すのです。神だけが私たちの持つ暗闇を理解し、光を投げかけてくださいます。
渇望がなければ祈りは死に瀕します。私たちが期待もせず、願わないなら、どうして神は私たちに与えることができるでしょう。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさいと、イエスは言われます。神は私たちを狭量な世界から取り出し、遥かに広がる可能性の空間を示してくださいます。それが起こるのは、自分の真の姿を神の愛に明け渡す時だけです。
★内なる暗闇という恐れ
自分の人格に潜む欠陥の背後には自分自身さえ知らない深い怖れや不安が潜んでいます。意識下にある暗闇は、恐ろしい性格的歪みをもたらしかねません。心の中の暗闇がどんなものであれ、私たちは本能的に隠し抑圧しようとします。そのとき祈りは恐ろしいものになります。祈りは、自分の持つ暗闇と向かい合い、それを暴くことを求めます。私たちにそのような祈りを促すのは、神がすでに混沌の力を支配してからです。
パウロは「私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった」と言っています。私たちの暗闇を追い出す創造的な力を受け取ることで祈りの生活は確実に成長していきます。心の奥深くに抑圧されていた怒り、絶望的な恐れ、無力感、罪責感、虚無感を破壊します。この壊れた生活を越えて新しい健全な人生へと招いておられることをはっきり認識することです。
人生の暗闇との出会いは私たちを祈りから遠ざけるものではなく、むしろ私たちを祈りへと駆り立てるものです。暗闇がいつまでも勝利することはありません。光は闇に打ち勝ち、愛は邪悪と憎しみを破壊するからです。
神との友情――あなたを変える祈りーーその4
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第三章 祈りの生活に入る
個人的な行為に見えても、祈りは個人主義の逆をいくものです。孤独の中に引きこもるのは神の御声を聞くためには必要ですが、真の祈りは他社の必要とも関係し、祈る人に新しいいのちを与え、様々な人間関係へと送り返していくものです。
★祈りは人間関係を表す
ロシアで書かれた『巡礼者の道』には、祈りと人間関係との密接なつながりが描かれています。
真の祈りを求めて旅する一人の人は、途中で多くの人に会い、温かな人間関係に引き入れられていきます。表面的には祈りの旅人は孤独ですが、旅仲間との分かち合いで豊かにされていきます。私たちも常に祈り心と自由な精神を持って人生の旅をするなら、神の臨在が私たちの生活の中にあり、私たちの存在と行動のすべては、十分な祈り心を持って生きることから来るとわかるようになるのです。
★祈りは神の主権を表明する
祈りの中で神に出会うことは、いつも心地よいわけではない。私たちの罪深さにノーと言われる神の性格を知らされます。それは私たちが暮らすこの時代の文化の中の罪と衝突します。祈りとは、すべてにまさる優先権が神にあることを認識させます。また、祈ることで、他の人々や神と関わり、交わる能力が与えられ、あらゆる人間関係すべてが新しくされます。祈りは人間の魂を神のいのちと活力に結びつけます。私たちは毎日「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください」といのります。
カルヴァンは正しい祈りの第一のルールは、我々の心と精神が、神との対話に入るものとしてふさわしく整えられることであるといいました。祈りの人となるには、払わなければならない代価があります。
四つの祈りの代価
1 神の出会い、打ち砕かれること
キリスト者であるとは、キリストによってショックを受けることを意味します。私についてきなさいという呼びかけを聞き、神と個人的に出会うときに自己中心は打ち砕かれるのです。
2 神のいつくしみに 自分を投げ出す
神を恋しくなつかしく思うことが、祈りの生活の一つの特徴です。いったん神を深く愛していることを知ると、神の臨在を日々の現実として体験したくなるのです。修道院の生活、あるいは荒野で神とだけ生きる人々もいますが、この世に住み続けながらでも祈りの生活から多くのものを体得できます。
3 神を信頼すること
神に対する信頼を深めて初めて、自分を十分に否定することができます。祈りには、神に対する恐れを知らない大胆な信頼が一番大切です。私のことを知り抜いているイエスは、完全に理解もしてくださいます。私よりもよく知っておられます。全てを見ぬいている目の背後にあるのは、人を受け入れ癒す愛です。
4 攻撃を受ける人間のままでいること
祈りは絶えざる戦いです。祈りの中で次々に襲ってくる邪悪な思いと対決させられます。人生を神にささげていけばいくほど、以前は抑圧していた思いが浮かび上がり、内面世界が暴き出されます。霊的に進歩していていると思ったのに、突然邪悪な思いに圧倒されても、霊の旅が逆戻りしたと思ってはなりません。戦わなくてはならない悪魔的な力が存在するのです。祈りは試みと誘惑に真正面から立ち向かいます。戦いは自分の内側から出てくる悪に抵抗し始めるとき本当に始まります。
砂漠の教父の一人が誘惑のリストを作り上げました。以下です。
暴飲暴食、姦淫、貪欲、不満足、怒り、落胆、虚栄心、最期の誘惑はプライド。
唯一の対抗手段は「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」
神との友情――あなたを変える祈りーーその5
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第二部 聖書の領域を探求する
第四章 旧約聖書の祈りの探求
こんにちの文化や生活様式は旧約聖書の時代とはかけ離れていますが、神との交わり(友情)を必要とする人の心は今も変わりません。旧約聖書の祈りの探求は、そこから神との交わりに深さ豊かさを垣間見ることができます。
★祈りの新しい世界
祈るとは、努力やコントロールなどの人間の領域を越えたところにおられる霊的実在にひざまずくことです。祈りはときに偶像礼拝的な偽りの神々への礼拝になることが起こりえます。アダムとエバは神の全知全能の力に対抗しようとし、神との交わりの外にある知識を求め禁断の木の実をもぎ取ったのです。唯一の神に祈らないことは罪と堕落の人間性の現れです。まず「神様、助けてください。自分では祈れません」と申し上げる必要があります。現代のテクノロジー社会からの従属からの解放を経験する必要があります。
★解放された奴隷として生きる
旧約におけるイスラエルの神体験は、出エジプトの経験に特色があります。私たちも偶像礼拝の奴隷となっており、自分の心の静寂と戦いの中で神と出会うまでは解放されて神を知ることはできません。出エジプトして解放された民は、喜びと感謝に満たされ、賛美の歌を歌いました。しかし、突然すべての問題から自由にされるのではなく、誘惑や試みに満ちた長い砂漠の旅が始まるのです。
神との交わりにおいて祈りあふれる生活を得たいと切望する時に起こってきます。
★神とともに親しく歩む
古代中東の異教世界ではどの神に祈るか混乱がありましたが、イスラエルは正反対です。ハンナは唯一の救いの神に長時間祈り、サムエルを与えられました。サムエルもダビデも絶えず祈りました。
イスラエルの王たちは神との交わりの深さによって「善王」か「悪王」か判断されました。
★神の前に率直に生きる
旧約聖書の預言者たちは祈りを国家存亡にかかわる事柄と見ていました。エリヤやエリシャの祈りがそうです。エリヤは祈りだけを武器に異教の神アバルの預言者と対決しました。エリヤの祈りによって火が下り、これがイスラエルの歴史の転換点となりました。エレミヤは神の御腕に自分自身を投げ出して祈りました。エゼキエルはイエスの来臨を待ち望みました。旧約聖書の祈りの人たちは、神と人とに対する一貫性を持った愛に根ざし、率直に生きました。
★神の臨在と絶えざる祈り
神の民は祈り深い民でした。神を敬う敬虔なイスラエル人は、祈りにおいて今日の私たちよりずっと積極的でした。今日しばしば持ち出される(いつ、どこで、どのように、なにを祈るのか)は問題にもなりませんでした。
どこで・どこででもです。聖所や式文を使わなければならないわけではありません。
いつ・イスラエル人は朝と夕、犠牲を捧げる時刻に祈りました。ダニエルは日に三回祈りました。
どのように祈ったか・アブラハムは地面にひれ伏し、ソロモンは両手を天に差し伸べ、ダニエルは窓辺でエルサレムの方向を見ながら。一般的には立って祈ることと賛美を歌うことでした。
何を・ヘブル語には祈りを表す単一の言葉はありませんが、広範囲にわたる言葉や概念があります。
嘆願する、助けを求める、導きを求める、あわれみを請う、とりなす、助けを待ちわびる、苦難の中で叫ぶ、ほめたたえる、賛美する、あがめる、喜ぶ、尊ぶなど。
★祈りの物語
旧約聖書は祈りに関する記事であふれています。詩篇は旧約の祈りの精華ともいう記録です。歴書には神殿での礼拝の祈りが九十回以上、個人の祈りは百四十回以上、その百回ほどに祈りの言葉そのものが記録されています。もっとも印象的な祈りは兄朝卯との会見を前にしたヤコブの祈りです。祈りとは神との格闘であるとヤコブは発見します。彼は祈りの中で、徹底した無力感を味わいその後の生涯に劇的変化をもたらす神との出会いを経験しました。
★神のすばらしさを賛美する
旧約聖書の物語は、主の御名がほめたたえれますように!で締めくくられています。ダビデにもルツ記にも主がほめたたえられますようにと何度も出てきます。
★詩篇における神の臨在
聖書全体の中で詩篇は祈りの数と表現の多彩さで抜きんでています。イスラエルの祈りの生活の縮図です。神殿がイスラエルの国としての歩みの心臓部であったように、詩篇は、聖書の、キリスト者の祈りの心臓部です。賛美の詩篇があり、感謝の詩篇があり、嘆きの詩篇、信頼の詩篇、記念の詩篇、巡礼の旅の詩篇、知恵の詩篇、王の詩篇があります。詩篇119篇は知恵の詩篇中最も際立っています。176のすべての節が、敬虔な人はいかに自分の生涯の焦点を神のみことばに置くかとのテーマに費やされています。王の詩篇は、王の王の即位と支配をたたえます。で、心の奥底をやがて来られる王の王に明け渡し、すべての心の扉を開け放ち、神にお入りいただくのです。
神との友情――あなたを変える祈りーーその6
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第二部 聖書の領域を探求する
第五章 聖書の祈りを生きる
深い個人的な確信をもって祈るには、神を個人的に経験しなければなりません。
真に聖書的な祈りとは、祈っている当人に神は自分の祈りを聞いてくださるばかりか、個人的かつ親密に会ってくださると確信させるものです。
★神の不在と臨在
「わが神、我が神、どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。わたしのうめきのことばにも。我が神。昼、私は呼びます。しかしあなたは、お答えになりません。夜もわたしは、黙ってはいられません」
時に神が不在のように思えるときがあります。ほんとに不在なのではなく、私たちが神を神として知ることを学ぶために、神は私たちから身を引くことがあります。神の不在を個人的に経験することで、結局私たちは神の臨在をより深く新しく感謝できるところへ導かれるので花でしょうか。
★祈る人を造り変える祈りの雰囲気
神の臨在と不在の経験は神に対する信仰を深めます。神の光と闇は神との関係を浅瀬からより深いところへと導きます。
ジェームズ・モントゴメリーの詩
祈りは、魂のまごころからの願い、
たとえ言葉にならなくても、外にあらわれなくても。
隠された心の炎のゆらめき、
胸の内で震えている。
祈りは、重荷のためいき、
こぼれる涙、
天に向けられるまなざし、
神のほか、誰もそばにいないところで。
祈りは、もっとも単純な言葉。
幼子のたどたどしい唇で話せるほどに。
祈りは荘厳な詩歌。
その旋律は天の王座にまでも届く。
祈りは、おのが道から立ち返る、
悔い砕かれた罪びとの声。
それを見つめる天使らは歌うたい、
喜び叫ぶ、「見よ、彼は祈っている」と。
祈りは、キリスト者のいのちの息吹き、
キリスト者のふるまいの匂い。
死の門における合言葉、
彼の祈りとともに天の国に入るのだから。
★魂の様々な動き
キリスト者の霊的旅路のあらゆる段階で、祈りは生涯全体を通して不可欠です。詩篇には様々な祈りが収録されています。生の深いところを神に向かってあらわにしていくとき、助けを求めて神に叫ぶ祈りの生活は、より充実したものへと成長していきます。祈りにおける成長は旅のようなものです。祈りはらせん状に上に上っていき、さらに広がってより大きな、より豊かな神への感謝、過去に対する感謝となるのです。
神との友情――あなたを変える祈りーーその7
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第二部 聖書の領域を探求する
第六章 聖霊――祈る人を造り変える友 その1
受け入れられる祈りをしたいと望む者は、
自らの感情と魂を込めて祈らねばならぬ。
心魂込めた祈りをしたいと願う者は、
神の霊を持って祈らねばならぬ。
御霊にあって祈ることが、祈りの内なる大原則だからである。
御霊にある祈りとは、祈る人の思いと、
その思いを祈るにふさわしく整え、
生き生きとした祈りに導かれる御霊の思いとの
両方をわきまえ知る祈りである。
ウイリアム・ゲルナール
神に自らを明け渡し、神の霊が私たちの内を住まいとして造り変えるために来られるとき初めて、霊的に生きるようにされます。神の臨在の内にあるとき、神がともにおられるという、それまで知らなかった不動の確信が与えられます。神の霊は、私たちの存在の最も奥深いところで語りかけ、ご自分が私たちに対して持っておられる計画を示してゆかれます。
★私たちの祈りの不十分さ
ひところ全世界のキリスト教会を席巻したカリスマ運動には危険があります。神の臨在を聖書に根差すより、時代に迎合した当世風な味付けをして受け止めるようになったからです。
私たちは往々にして聖霊を私に与えられた「力」として強調する傾向があります。力の強調は誤用されます。不思議なわざを行うために追求しようとします。その力を神との親しい愛の交わり抜きに用いることは極度に危険です。奇跡をおこない悪霊を追い出し、その力はキリストにあると主張する人々にイエスは警告しています。「わたしはあなたがたを全然知らない……」(マタイ7・13)。
聖霊の内住の証拠とは、神との人格的結びつき、さらにキリストの支配のもとにひざまずく意志を持っているかどうかです。旧約の預言者たちは神の臨在は私たちが神を求める意志があるかどうかにかかっていると強調しています。
行き詰まりや苦しみが、自分の力よりも神の霊により頼むきっかけになりうることがあります。また途方に暮れるとき、うめくだけの時があります。
祈りにおける行き詰まりは
① 言葉で言い表せない(言葉が出ない)
神の御霊は私たちにどのように祈るかを教えてくださるばかりでなく、御霊自ら私たちに代わって祈ってくださるのです。(ローマ8・27)
② 霊的識別力に欠ける
何が神の御旨かをはっきりつかむことは最も困難です。それが分かれば自分の祈りをどのように方向づけたらいいのか分ります。近視眼的に自分の判断で目前の自分の必要だけしか見えない場合、明らかに神のみこころでないものを祈り求めてしまいます。祈りを、神に向かって「語りかける」よりも「耳を傾ける」ことととらえるならば、神との結びつきはもっと改善されるし、神の静かな御声に耳を澄ませる姿勢は私たちに洞察力をもたらします。
③ 自己中心の祈り
祈りにおいて私たちが「うめく」理由の一つは、祈りが自分自身と自己の必要についての自分の考えにあまりにも偏っているからです。絶えず自己に付きまとわれる状態は罪が私たちを占領している証拠です。自己憐憫は私たちの自己中心の正体の証拠です。ゲッセマネの園でのイエス様の祈り「私の願いではなく、みこころのとおりにしてください」を、自分の祈りにできるとき、私たちは真の祈りを発見したことになります。自分に縛られている限り、私たちは自らの作りだす鎖につながれ、うめき続けるしょう。
④ 人間的な祈り
私たちの祈りは人間的な弱さを抱えています。むら気、怠け心、落胆などで、祈るための自己訓練や熱意に欠けています。信仰も欠けています。人間の祈りは十分ではありません。人間的な弱さを造り変え、神の願っておられるように祈れるようになるためには聖霊がどうしても必要です。
神との友情――あなたを変える祈りーーその8
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第二部 聖書の領域を探求する
第六章 聖霊――祈る人を造り変える友 その2
聖霊の与える友情
★第一は、聖霊は「大切なことを思い出させる友」です。
イエスが弟子たちに語ったすべてを思い起こさせます。イエスの教えが今日まで教会で見失われなかったのはそのためです。キリスト教の歴史の中で、異端が起こった時も、そのたびに真理が再発見されました。私が自分の権利を明け渡し、聖霊が私の人格の内で主導権を取ることを願うとき、私の信仰はダイナミックにされ、私の祈りは神との絆を育てる場となります。
ジャン・カルバンは言います。
神の子たちの主な務めは祈ることである。信仰が存在するところはどこでも、祈りは生き生きとその存在を表わす。
★第二は、聖霊は、「前もって私たちに警告を与える友」です。
真の友がそうであるように聖霊は常に友に誠実です。聖霊は私たちが順調な時だけでなく、物事をありまなまに見せてくださいます。
★聖霊は「罪について、義について、さばきについて世にその誤りを認めさせる」のです。
前もって警告されることで、私たちはどのような状況下でも、周囲の圧力や自分の気質から来る生来の弱さに抵抗する勇気と洞察力、強靭さが与えられます。聖霊は私たちに永遠の視点を与え、事態を神の視点から見るようにされます。おかげで、私たちの祈りの生活は果敢で純粋なものとされ続けます。
★第三に、聖霊は「天国を味わわせてくれる友」です。
聖霊は天国における神と私たちとの交わりがどのようなものであるかを予感させます。祈りにおいて私たちは永遠にわたって楽しむ神との晩餐のささやかな前味を体験しているのです。
★第四に、聖霊は「私たちと常にともにおられる友」です。
イエスは言われました。
父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。(ヨハネ14・16)
聖霊の臨在を抜きにしては、私たちの気質が変えられることは望めず、祈り、従う努力もすべて無に帰すでしょう。私たちの体が聖霊の宮とされるために、聖霊は私たちの内に住まわれるのです。
聖霊は私たちの生活から卑しさ、自己疎外、目的のなさを取り除き、私たちを神により近く引き寄せてくれます。聖霊は、神の臨在を生き生きと体験させます。聖霊は私たちに代わって神の御前に祈りを捧げ、私たちが神の切望しておられる、ほんとうの意味での満ち満ちた人間になることを可能にしてくださいます。
神との友情――あなたを変える祈りーーその9
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第三部 神のふところに入る
第七章 イエス・キリストとの友情
日ごとに、日ごとに
愛する主よ、三つのことを祈ります。
よりさやかにあなたを見祀ることを。
より深くあなたを愛することを。
より近くあなたの後にしたがうことを。
日ごとに。
チチェスターのリチャード
聖霊が私たちの友となられる主な目的は、父なる神と呼ばれる神とのより深い交わりを私たちに与えることです。このためにこそ、イエスは弟子たちを離れて天に帰られたのです。それによって、主をそれまでよりもあるかに深い意味で知ることができるのです。
聖霊は聖なる御霊であり、慰め主であるゆえに、聖霊を迎え入れると、人は聖い生き方、慰めを味わう生き方をするようになります。祈りの生活の中で聖霊が働かれるにつれて、私たちの態度や霊的成長に著しい変化が見られるはずです。
信仰は増し加えられ、希望はさらに広げられ、神に対する愛は深まり、喜び、平安、内的確信は私たちの内面を豊かにするでしょう。その結果、祈り方が本質的に変わります。神との会話にもっと自由を体験し、断固としてイエスについていき、イエスの友であろうとします。自己防衛の束縛から解放され、新しい光の中で自分を見ることができます。私たちのアイデンティティーがキリストの内にあるからです。
★主イエスと私たちのバーソナリティー
主イエスが死を選ばれたと同様に彼に従う者も真のいのちに至る唯一の道は、自分に死ぬことです。自分の古いパーソナリティーと決別し、キリストのコミュニオン(一つとされる深い交わり)に入るのです。それによってのみ、私たちは祈りにおいて神の御前で本当の自分となることができるのです。
★祈りの「道、真理、いのち」であるイエス
私たちの一人、人として生きた神イエスに似た者と変えられる、それが祈りにおける私たちの旅路の終着点です。
★従順の道
神のみこころに従順な思いをもって祈るとき、私たちの祈りは、もはや自分の視点から出てくる祈りではなくなります。内なるキリストの視点から生まれる祈りとなるのです。これはまだこの世では完全に実現していませんが、世を去って後、実現します。そのときこそ、御父と御子が一つであるように、イエスと一つとされます。この変貌の希望こそ、私たちの全生涯のゴールです。
★神への信頼の道
祈りは神への信頼を学ぶ道です。イエスとの友情という継続的でダイナミックな関係は、信じること、信じつづけることです。神への信頼の道とは常に神の臨在の意識が生活の隅々まで染み渡っている生き方を意味します。
★服従の道
イエスの友である人は、必ずほかにも大勢の良き友を持っているはずです。真の祈りの霊を与えられている人なら、他者のために祈ることで、その人のために喜んで譲ることができるはずです。神が私たちをどのように造り変えてゆかれるのか、私たちは喜びと希望に胸を膨らませるのです。
★闇を照らす真理
イエスの敵は「ねたみ」とう闇、「偽善」という闇、「心を閉ざす」とう闇を持っていました。これらの闇は光と闇がどれほど違うかをはっきりさせるものばかりです。
★解放を与える真理
イエスの名によって祈ることは自分自身から解放されることを意味します。私たちは、キリストにあって一人の人格となるのです。もはや、自分の独自性にしがみつくのではなく、キリストにのみ属する者として自由にされて生きるのです。この帰属意識は、絶望に対する実に強力な特効薬です。イエスの名によって祈ることで、私たちは自己の内的生活において自由にされ、神の独り子イエスの名を帯びる者と帰られていくのです。
★目指すべきものを示す真理
イエスの名によって祈るとは、イエスの意志が私たちの内に実現するように祈ることです。祈りが基本的に目指すものは、私たちの必要が満たされることでも、願望がかなえられることでもなく、私たちの祈りと生き方によって神が栄光をお受けになることです。イエスが私たちを召されたのは、イエスと私たちとの間の友情のすばらしさを他の人々にも分かち与えるためです。
★隠されてあるいのち
イエスの生涯の大きな特色は、その目立たない生き方にありました。イエスは故郷のナザレではひっそりと長い沈黙の年月を過ごされました。祈りを真剣に受け止め、自らイエスと同じいのちを生きようとし始めるとき、私たちの歩みの大半は、誰にも注目されない者となることを覚悟しなければなりません。大勢の人に認められたい下心を持ったままでそのような生き方をすることは不可能です。見てくれのよい興業まがいの生活をさせるためにイエスは来られたのではありません。「密室の祈り」と呼ばれる神との交わりに心してもっと時を費やすべきです。
★依存するいのち
祈りは、人目から隠されることなくしては花開くことはできません。また依存なくしては機能しません。自主独立、何でも自分で決め、対処する現代人の気風は、祈りの生活を支配するいのちとは全く異質、別世界に属しています。イエスは、ご自分の父により頼んで力を得ておられました。イエスは御父により頼んで導きを得ておられました。私たちはやたらに天からの不思議なサインをほしがる傾向にありますが、導きとは、自分の人生全体を神の光の内に生きようとしているかの問題です。
★へりくだるいのち
神の臨在の前で私たちにできることは、ただへりくだりひれ伏すことのみです。生涯を通じてへりくだって歩まなければなりません。謙遜は、真の祈りの生活に欠かせない土台です。パウロはイエスの驚嘆すべきへりくだりを、初代教会の賛美を引用しながら記しています。
ご自分を無にして/仕える者の姿をとり/人間と同じようになられたのです/
キリストは人としての性質をもって現れ/自分を卑しくし/死にまで従い/
実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2・7-8)
神との友情――あなたを変える祈りーーその10
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第三部 神のふところに入る
第八章 父と子の友情を深める
祈りというテーマはあまりに広大で、
御父がそれを啓示し、
御父の長子である「ことば」なる神がそれを教え、
御霊なる神がそれについて正しく考え語る力を人間に与えることが
求められるほどである。 オリゲネス
いかなる場合も、キリスト者が正しく「しゅの祈り」を祈るなら、
その祈りは十分以上であると、私は確信する。マルティン・ルター
神の父性は、今日ますます数を増すフェミニズム神学者の攻撃の的になっています。女性解放の神学を唱えるキリスト者たちは、教会に「我らの父よ」と祈ることを止めることを求めています。
逆に、この問題を全く無視して「父なる神」に祈りを続ける人たちもいます。過激なフェミニズムと無関心な保守主義とのあいだで、祈りそのものがなおざりにされています。私たちの知的活動にも改革が必要です。
★父親不在の社会における父なる神
新約聖書は神の父性を積極的に捕えています。イエスは常に父なる神について語っています。
★父親不在の傷
イエスと父なる神との間には競争はなく、イエスはご自分の父が自分に望まれたことに従われました。御父と御子の間にあるのは十全で満ち足りた関係です。
★分裂症を病む社会に生きる
子どもにとって親とは、砂漠の大岩にも似ています。親なしでは、砂のように絶えず移り変わる私たちの感情は落ち着くところを知らず、多くのものにいのちを与える愛の豊かさを知ることは決してないのです。「あなたはわが父、我が神、我が救いの岩」とたたえられる神こそ、定点、砂漠にある緑地です。
★神の父性
イエス・キリストのもたらした福音とは、私たちが疎外された社会の絶望から目を移し、神を自らの父として見いだすことが可能になったという知らせです。神は、留守がちな人間の父親とは違い、常にご自分の民とともにおられ、彼等を救い出すために機敏に動いてくださいます。神はご自分の民をエジプトの奴隷生活から連れ出し、新約聖書では、罪と自己中心の奴隷となっている私たちを救出するためにご自分のひとり子を遣わされました。
★父へと続く新しい祈りの場
イエスは、ご自分と御父との間のダイナミックな交わりを、弟子たちも共有できると明言されます。イエスの父は弟子たちの父でもあると言われるのです。これこそイエスが私たちに下さった祈りという贈り物の意味です。イエスが教えられた祈りは今日「主の祈り」として知られるものです。「主の祈り」は私たちが、主イエス・キリストを通して御父と交わる中で、神の子どもとしてどう生きるかを学んでいく過程を象徴的に表しています。
★父との親密さ
「天にいます私たちの父よ」マタイ6・9
この冒頭の祈りは祈る者に御父の親しさを教えています。真の祈りには必ず親しさが伴います。
神との親しい交わりは、天のいのちに近いものです。御父のおられる天に心を向けることになります。「天にいます私たちの父よ」と祈り始めると、実際この地上で寄留者となるのです。
★「御名があがめられますように」マタイ6・9
御父の聖さが私たちの祈りの霊的な調子を決定します。しかしどうすれば神の「御名をあがめ」ることができるのでしょう。私たちはイエスが捧げられたいけにえを通してこの聖なる神に近づくことが許されているのです。
★「御国が来ますように」マタイ6・10
この祈りは神が私たちを支配されるのを受け入れることです。この祈りは私たちの人格の隅々にまで御父の支配を染みわたらせるものです。イエスがそうであったように御父の支配に全く服するのです。
★父のみこころ
「みこころが天で行われるように地でも行われますように」マタイ6・10
神の御国が私たちの心に深く根を下ろすと、神のみこころ以外は何も求めなくなります。地上で見られる神の支配と、やがて来るその日の有様とを比べれば、小さなせせらぎと大海原ほどの違いがあります。それゆえ祈りとは、地にある様々な人間の矛盾を神が残らず取り除いてくださる日を待ち望むことでもあります。
★与え主である父
「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」マタイ6・11
この祈りを弟子たちに教えられた主は、明日のことを思い煩うなとも言われました。神の国に属するとは、もう数えきれないほどの心配をしなくてもよい、ということです。食糧庫が空っぽなら、日々の糧のために実際に祈るべきでしょう。もしいっぱいなら、荒野でイエスが石をパンにすることを拒まれたことを思い出すべきでしょう。私たちの心を支配するのは祈りであり、私たちの腹を支配する食べ物ではないことを覚えるべきです。
★父の赦し
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」マタイ6・12
この祈りから、神の赦しを受けることと、人が自分になしたことを赦すことの間には深いつながりがあることが分かり、神の助けなしには他者を赦せないことに気づきます。誰かを赦そうとして赦せない自分の姿を知ると、神に赦されなければならないのはむしろ自分だと、いやおうなく痛感させられます。そして自分がどれほど深く神から赦され愛されかに目が開かれるとき、他者を赦そうとする気持ちが与えられます。他者を赦したくないなら、神が私を赦してくださることは期待できません。私たちが他者に与える赦しは、私たち自身をも癒します。赦しを拒むことは、究極的に自分の人間性喪失につながります。
★父が与える救出と祈り
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」マタイ6・13
私たちが肉体を持ち、交わりのために人格的存在であることは、道徳的に非常に誘惑に陥りやすいことを意味しています。イエスは「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい」と言われました。神との友情が深まれば深まるほど、悪の力の実在と自分の身に及ぶその力に対して敏感になります。サタンは私たちを破滅させようとして誘惑してきます。御父は試練をお与えになります。神からの試練は、私たちが苦しみと誘惑を乗り越えて成長する助けです。この主の誘惑は私たちに成熟を与えるために神が用いる手段です。誘惑はイエスがそうであったように、勝利するために私たちがどうしても通らなければならない経験です。
「御国はあなたのものです」
イエスの生涯と死を通して、御国はすでに地上に到来しています。敵の敗北は目に見えています。最終的な勝利をはるかに望み見て、今から喜びにあふれています。その日、天と地は完全に神の御国になるからです。
神との友情――あなたを変える祈りーーその11
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第三部 神のふところに入る
第九章 聖三位一体の内にある友情
最後の晩餐の席上でイエスは弟子たちをこれからは友と呼ぶと言われました。この友情の絆は、ただキリストのうちに隠されていることで満足し、幸せを感ずる交わりです。神の友はひとり荒野に住むことも辞さないのです。他の対象に対する愛が神への愛を曇らせてしまうかもしれないからです。では、この神との友情とはどんなものでしょう。
★みせかけのない友情
神との友情は、この世の拍手喝采をもとめず、受けることもありません。神との人格的な交わりに入ることは、自分の惨めさに気づかされ、自分を神のあわれみの御手に投げ出すことを意味します。実に恥ずかしい経験です。しかしそこを通ることで、正直で、見せかけのない友情が育つのです。
★友を造り変える信頼
神は私のことを、私自身よりもずっとよく知っておられ、しかもはるかに細やかな愛情をもって知っておられるという安心感が、私の生を根底から造り変える力となります。御霊により、キリストにあって、神を観想すること、これが神と私たちのと友情の核心です。
★観想とは、キリストの内にとどまること
実を結ぶために枝がブドウの木にとどまらなければならないように、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもほしいものを求めなさい。あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることにって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」とイエスは言われます。その実とは神ご自身の本質を表すものです。パウロもこの実を御霊の実と言い、愛喜び……柔和、自制です。キリストが御父の中に留まっているように、キリストの内にどどまるという協調は、ヨハネの福音書全体に一貫しています。イエスが御父にどのように祈っていたかヨハネ17章を注視します。
★御子を通して、御父の声を聴く・ヨハネ17章
この祈りは教会史上いろいろな名称で呼ばれてきました。「大祭司の祈り」、「救い主の告別の祈り」等々。旧約の族長たちも告別の祈りをしました。ヤコブは死の直前、12人の息子をそばに呼んで祝福を祈り、モーセも死の直前に12部族を祝福しました。イエスも弟子たちを集めて、祈りの中でご自分の父がどのようなお方か、どんな目的を持っておられるかを明らかにしました。イエスは、御父と御子がともに持っておられた、親密な永遠の愛の交わりに大勢の息子、娘を迎え入れるために祈ります。
★なぜ弟子たちのために祈られるのか
弟子たちは、御父から御子への大切な贈り物でした。それゆえ御子は彼らに御父がどのようなお方であるか明らかにされたのです。彼らが三位一体の神から流れ出る交わりのいのちに触れることができるためでした。
★神の友たちの交わりの広がり
ぶどうの木のたとえで、イエスは幹につながる枝のみならず、枝が結ぶ実についても話されました。
イエスは祈りの範囲をさらに広げ、やがて福音を聞いて信じる人をも取り込んでゆかれます。神を信じようとしないこの世に福音を信用させるものがあるとすれば、主を信じる者同士が神ご自身との公同の交わりに生きるときに初めてもたらされてゆくものです。
★神を恐れ、神と響き合う歩み
私たちの歩みの焦点が神に合わされるとき、きよい畏れと驚きの念が私たちを神礼拝へと向かせます。神へのきよい恐れは心の内に働き、私たちを内から造り変える神の力へ至る道を備えます。
神の威光と尊厳、その近寄りがたさと親しみやすさ、祈りの中でこの両方を体験します。キリストにある神のいのちの調和が、私自身の内なる調和の秘訣です。それによって私は他の人に同情でき、友と平和に仲よく暮らせ、喜びと幸いに溢れる者とされるのです。
★自己を放棄する歩み
自己放棄の生涯こそ、キリストにある人格となることの意味するところです。神を畏れる生き方を真剣に求め、神との調和を味わう幸いを心から願うなら、自分自身から解き放たれる必要があります。御前に静まりひたすら御声に聴く姿勢を身につける必要があります。日々の様々な騒音にもかかわらず、常に静けさと沈黙都の中で主を深く思うことは、生きる上で必要不可欠です。これた私たちに与えられた最も尊い賜物、召命です。
神との友情――あなたを変える祈りーーその12
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第四部 神の共同体における祈り
第十章 パウロの祈りの生活と友情
あなたの祈りを言葉の羅列に終わらせてはならない。
むしろあなたの生活全体を、神への祈りとしなさい。 イリアのイサク
私たちには二種類の友情が必要です。神との友情と同時に、人間同士の友情です。
十四世紀イギリスのリチャード・ロールはいいます。
聖別された友情は確かに神から来ている。私たちがこの地上での寄留生活の惨めさのただ中で、みもとに召されるまでは、友からの励ましによって慰めを受けることができるようにと、神が備えられたものである。
人間同士の友情は、神との友情の架け橋となり得ます。しかし、真の友を見出すことは非常に困難です。孤独に悩む現代人のためにカウンセリングという形で有料で友情を提供する業界が今日すでに存在しています。巷にあふれるカウンセラーは「職業的友人」、「友人業者」と言われます。
友情と祈りの関連は使徒パウロの生涯に顕著です。パウロの血の通った温かい友情は、彼とともに生きた人々をより深い祈りの生活へと促し、私たちをも励ましてくれます。
パウロの友情
パウロはパリサイ派に属し、初代教会のキリスト者の凶暴な迫害者になり、彼らを逮捕するためにダマスコへ向かう途中で、復活のキリストに出会い、劇的回心をして、キリスト者の最前線に立つようになります。その後の彼の働きと友情はすべて祈りによって貫かれていました。
パウロは自分が導いた人たちを深く心に掛け、福音に生きるためにやさしい思いやりと同時に厳格な権威をもって手紙をしたためました。パウロは生涯を通して祈りと教理を分けて考えることはなく、テサロニケの人々には『絶えず祈りなさい』とすすめ、エペソ教会には『……どんなときにも御霊によって祈りなさい』と書き送っています。人のとりなしにも心を傾けて祈っています。他者のために祈る一方で、自分の個人的な苦しみ『肉体のとげ』を神が取り去ってくださるようにとくり返し祈っています。しかし神の真意を知った時、この祈りを止めてみこころに従いました。彼はもはや自分の生来の気質から来る衝動や、生来の性格からくる反射的行動によって物事を進めませんでした。
★祈りを伴うあいさつ
パウロは多くの手紙を『恵みと平安があなたがたにあるように』というあいさつで始めています。
手紙が、彼の働きの中で中心的な役目を果たすことができたのは、手紙を運ぶ近しい同伴者、友の存在があったればこそです。このようにして友情とキリスト教の使信の広がりとは、一体となって進展してゆきました。
★パウロの感謝の姿勢
パウロの手紙の書き出しはいつも神への感謝にあふれています。彼らの生活を大きく造り変えた神のみわざを喜びにあふれて語るうちに、神への賛美に変わってしまっています。自分自身はあらゆる苦難の中にいながら、弱い時にこそ強くされることを、苦難を通して体得したので、感謝にあふれることができたのです。
★確信をもって願い求める
『高さも、深さも、そのほかのどんな被造物からも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません』ローマ8・39。パウロの力強い奉仕の秘訣は、祈りを通して与えられる、父、子、聖霊なる神との交わりにありました。
★祈りと融合された神学
パウロは神学(神に関する教え)と祈りとをみごとに融合させることに秀でた人でした。信仰の成熟は、知的な神理解と神体験の両方によって初めて可能になることを彼は認識していました。エペソ人への手紙は祈りと神学との融合という点で、彼の書簡中の最高峰です。
★神を「父」と呼ぶ体験
パウロの祈りは、神を「父」として体験することがどのようなことかを教えています。パウロは、神が『御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように』と祈ります。ダイナミックな力を受けることで、祈りの生活、神への愛、神を現実に知る知識が真に力あるものにされるというのです。これは私たちのパーソナリティーの中核において起こります。それゆえ、生まれながらの気質は、祈りの内に完全な成熟に変えられてゆくことが可能です。人格的変化をもたらすことができるのです。「父」として神を体験することから生まれるものの最後は『神のご自身の満ち満ちたさまにまで……満たされ』ることです。これこそが、すべての祈りのクライマクスです。祈りとは神に自分の願いの集中砲火を浴びせかけることではありません。私たちの歩みがいつの間にか自分自身からそれて、神の意志の方向へと向かい始めたときに初めて、ほんとうの祈りは始まるのです。ひたすら神の思いと願いに心を向け、集中しているなら、大胆に神に近づくことができるのです。
★賛美―――祈りの結論
全ての祈りが最終的に行きつくところは賛美です。真の神の友とは、自分の内に絶えずあふれている神への賛美を包み隠せないことを、パウロの祈りは教えてくれます。そのような讃美でパウロの祈りは終わります。神の側には私たちに代わってことをなす、あるいは私たちのために骨折ってくださる準備が整っているのです。神の無限の可能性は『私たちの内に働く力によって』エペソ3・20.現実のものとなるのです。『……私たちの内に働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスにより、栄光が、世々に渡って、とこしえまでもありますように。アーメン』(エペソ3・14~21)
神との友情――あなたを変える祈りーーその13
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第四部 神の共同体における祈り
第十一章 神の友たちによる祈り
聖徒たちの生涯――これこそ福音の実証にほかならない。聖書のみことばと聖徒の生涯との差は、まるで、譜面上の曲と、それが生の声で歌われた時の違いだ。フランシス・デ・サレス
祈りとはいのちの表れである。生の深みから生まれ出るものである。その深みが祈りの質を決める。それゆえ、祈りそのものに費やす思いの十倍を、祈りの背後の生活に捧げるべきと言っても過言ではない。 E・ハーマン
祈りには内的側面と外的側面、個人性と社会性の両面があります。バランスのとれた生活を送るとは、友との交わりを豊かにするために神との個人的な交わりを大切にし、同時に神との交わりを深めるために共同体の生活を大切にすることです。人は共同体の中に生きていないなら、独りになることはできないし、独りになることなくして本当の共同体を持ちえないのです。
★祈りの聖徒の交わり
パウロは私たちが「すべての聖徒とともに」祈りにおいて真の自己探求をする者となるようにと祈りました。ですから、過去、現在の神の民とともに歩み、彼らが分かち合ってくれる経験から学ぶことが必要です。
祈りは神の御前における生活全体を表すものです。祈るとは、神に自分の生き方を変えていただくように願うことです。
「聖徒の交わり」とは、一つには、私たちより前に生きたキリスト者の歩みから学ぶことができます。二つ目には、過去のキリスト者たちが神との親しい交わりのなかで切り開いた歴史的伝統から、祈りを切り離すことはできない。彼らの信仰と献身の高い標準を知ることで、今日の文化が抱えている偏見や盲点から引き上げられ、私たちの文化に顕著な、祈りに関する自己満足を捨て、祈りをより真剣に捕えはじめるようにされます。
★あらゆる祈りの領域を生きる。
*言葉による祈り(口頭の祈り)
聖書には口頭による祈りがたくさん出てきます。詩篇はありとあらゆる祈りを満載しています。
口頭の祈りの強調は歴史を経てキリスト者に受け継がれています。
*瞑想の祈り
瞑想の祈りとは、神との、また神の御前での会話の一つの形式であり、口頭の祈りよりもさらに内面的なものです。中世の修道院の伝統では、祈りと聖書朗読は常に一緒でした。短く簡潔な祈りに続いて、ながいゆったりした朗読があり、祈りと朗読の間に瞑想の時があり、朗読の後にそれを熟考し、記憶にとどめる時間がありました。キリスト教的瞑想は、神の臨在に私たちを導くイエスがなしてくださったみわざに依存しています。ほんとうの瞑想とは、聖書とイエス・キリストを通して、神の啓示された真理に焦点を合わせるものです。
*観想(黙想)の祈り
観想と黙想を取り違えたり両者を同一とするものがあるが、この二つはどのように違うのでしょうか。瞑想の祈りは言葉を使った象徴的なコミュニケーションを伴います。そこには知的活動があり、思考と感情の両方が働いています。観想の祈りは神の臨在が現実ものとして強烈かつ密接に迫って来るので、言葉や思考は必要が無くなります。それゆえ、観想の祈りとは、私たちとともにおられ、私たちの内におられる神の臨在を深く個人的に気づかせられることです。多く思索するよりも多く愛することが求められ、強さや力ではなく、愛と習慣が必要です。
*忘我的祈り
我を忘れるという状態は祈りにおける神との友情の一つの頂点です。きわめて個人的なもので、この旅のゴールはパウロが宣言したように言い尽くせない歓喜です。ところで、多くの人が神の霊をダイナミックに経験するために必要なのはこれだと真剣に信じて、口頭の祈りを後にして忘我的祈りという一種カリスマ的経験へと一気に飛躍してしまう傾向があります。しかし、魂の旅路においては、瞑想の祈りを求める歩みを通して、口頭の祈りから徐々に前に進むものです。さらに旅の次の段階は、神の臨在と愛を黙想する祈りの経験を受け入れることです。最後に忘我的祈りにおいて、自分の人生全体に変革をもたらす聖霊の実をみることでしょう。
ヘンリー・ナウエンがかつて祈ったように祈る必要があるのではないでしょうか。
「主よ。あなたについての思索にふけり、神学的観念や議論に熱中し、様々な霊性の歴史と伝統に興奮し、祈りと瞑想についての思想や観念に刺激を受ける……。これらすべては単に、放縦な貪欲、物欲、権力欲と同様、貪りの一種であるかもしれません。それゆえ、日々くり返し悟ります。あなただけが祈ることを私に教えることができ、あなただけが私をあなたの臨在に内に留まらせてくださることを。どんな本も、思想も、概念その他の何物も、あなたご自身が、これらの道具をあなたへの道となさらなければ、私をあなたに近づけることはありません」
神との友情――あなたを変える祈りーーその14
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第四部 神の共同体における祈り
第十二章 祈りの共同体
神との友情、親しい交わりは、よそよそしいものではなく、兄弟や母子の間にある親しさよりもはるかに親密で確かなものである。それが、霊的なものだからである。
フランシスコ・デ・オスナ
本書が強調する祈りと友情の相互関係は、言い換えるなら、神を愛し隣人を愛せという、あの黄金律にほかなりません。今日、多くの人が祈りに心を向けつつあるのは喜ばしいことです。人は見な心の奥底では神との友情を求め、神をあがめたいと切望しているのです。人間は実にそのように造られているからです。
アウグスティヌスは言います。
あなたは、私たちをあなたご自身に向けて造られたがゆえに、わたしたちの心は、あなたの内に憩うまで安らぐことがないのです。
★アマチュア精神の必要性
人間は決して祈りのエキスパートには成り得ない、いつも祈りの初心者であると自覚すべきです。聖職者と信徒はプロとアマではない、専門家と素人の区別は誤りです。司祭や牧師の祈りの方が私たちの祈りより上等なのでしょうか。聞かれる祈りなのでしょうか。今日世界はその道の専門家になることに躍起になっています。キリスト者は適当なアマテュア精神を維持することが不可欠です。
★心の癒しと祈り
わたしたちには神を喜ばせたい、神に仕えたいという熱い思いが与えられていますが、その一方で古い自分のパーソナリティーは、願っているはずの急激な変化に頑固に抵抗してきます。どうすればよいのでしょうか。祈りにおいて神のみもとに行く以外にありません。祈りは視野を広げて、みこころが自分の意志よりもはるかに重要であることを分らせてくれます。祈りは私たちをささいなつまらないことから引き離し、物事を神の視点から見ることができるようにしてくれます。まず最初に私たちは自分自身を神の目から見るようになります。
すると、自分の生活が自分の大切の思った者によって限定されてしまったことに気づきます。私たちは自分の大事にしているものを最優先させます。それによって時間とエネルギーの使い方が決まります。祈りはこの私たちの愛を変容させ、今まで見えなかったものを見せることで、私たちの生活を造り変えるのです。神の愛にさらに目覚めるにつれて、内側の大きな変化に、自分だけでなく、周囲の人々も気づくようになります。心の癒しを求めることは極めて重要です。
★霊的指導と祈り
祈りの生活に前進するためには、真の信仰の友、または信仰の先輩との友情が不可欠です。その友の模範や助言、友情が、私たちの霊的な旅路の道しるべとなります。このような「霊的指導」をうけるために、福音を生きる生き方を身をもって示してくれる、霊的に成熟したキリスト者との交わりを育てる必要があります。
魂の友とは私の信仰の浅薄さ、自分でもどうにもならない依存症的行動、うわべの生活のずっと底に隠れているものが何であれ、それを安心して話し合い、一緒に分析できる相手です。魂の導き手、霊的友人とは何をする人でしょう。まず私が真に生きるために、真に祈れるよう、導き励ましてくれます。さらに魂の友は、私に生活のバランスを欠いている部分を指摘し、そうすれば情緒的で私がもっと大人になれるかを指し示してくれます。生活はあらゆる面でバランスが取れいるのが理想です。身近な人とつきあうと同時に頻繁に接する機会のない人々ともつきあうと具合に、バランスよく様々な人間関係を享受すべきです。自分を惜しみなく与え、他者を助けることができることを感謝する一方で、謙遜に他者からの助けを喜んで受け入れるべきです。
最後に、魂の友は私がその人から目を離し、神ご自身を礼拝するようにと指示します。結局私たちに必要なのは、神ご自身です。ですから私が神との友情に誠実であり続けることができるように助け励ましてくれる友こそ真の友といえます。
★生命共同体の祈り
祈りにはそれが単独行為であるとともに、別の面、神の民が共同体である事実の発露でもあります。現代の教会は共同体としての祈りを再発見し、それを共同体の中心に据える必要があります。霊的な友だちとの交わりによってはぐくまれる祈りだけが、信仰生活に成長と豊かな実りをもたらすのです。キリスト者の共同体とは何を指すのでしょう。それは、例えば霊的な励ましが必要な友に手紙を書くこと、また、意気消沈している人、親しい人を亡くした人、心傷ついている人を見舞うことです。真の共同体の成長は、依然として組織によるものではなく、有機的なつながりによるものです。友情とグループの交わりが祈りによって造り変えられるとき初めて、共同体は成長するのです。
神との友情――あなたを変える祈りーーその15
ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。
第四部 神の共同体における祈り
第十三章 共に祈るために
ひとこと
長く厳しい読書の旅でしたが、いよいよ最終回です。ピックアップも要約も片寄りがあり不十分ですが、これをきっかけに本書それ自体に挑戦し、じかにフーストンを理解し、さらに神様との豊かな人格的交わりの中で広大深遠愉悦に満ちた祈りの世界に導かれることを切望します。
祈り深く生きるとは、本質的に神に心を開いて生きることです。そうすることは、人間同士の友情をも造り変えるのです。神の人格性を体験することは、私たちのパーソナリティーを豊かに養うことにつながり、神との友情ばかりか、人間同士の友情がどれほど大切かということも教えてくれます。しかし魂の友との交わりが目指すものは、人間的なつきあいを楽しむことではありません。神への愛と人間との愛は、肩を並べていっしょに育っていくものです。
★神は交わりなり
私たちの新しいいのちは御父と御子と聖霊の御名においてバプテスマにあずかった時に始まりました。私たちの霊的な交わりは、御父を通し、御霊によって御父に祈ることによって維持されています。そして私たちに行きつくところは、一つにして三人格の神の臨在のうちに永遠に住まうことです。
三位一体とは神の生ける神秘です。私たちはこの三位一体なる神との深い霊的交わりに入る時にのみ、初めて完全に自分自身を理解できるようになるのです。父、子、御霊の愛の共同体に引き寄せられるとき、初めてどのように他者に近づくべきかを教えられるのです。
私たち人間は、神によって神のかたちに神に似たものとして創造されました。それは、私たちが互いに深い交わりを持ち、また同時に、神との深い交わりに生きるためでした。神は愛であるゆえに、私たちをも愛に生きる者とするために、贖いだそうとされました。実にこのためにキリストは苦しみを受けて死に、勝利の内に復活して私たちを神から阻害するあらゆるものを征服し、人の魂が神の愛の啓示を受け入れることができるようにしてくださったのです。
★祈りの友
何にも増して必要なのは祈りにおいて個人的に支え合い励まし合える、そして相談し合える友です。
大切なのは聖書を瞑想することです。祈り深いみことばの学びは、どの時代の神の民にも特徴的な習慣でした。祈りを通してはぐくまれる友情は「みことば優先」の鉄則を妨げるものによくよく警戒しなければなりません。
祈りの生活と人格の孤立は両立しません。あらゆるキリスト者から孤立してただ一人で祈ることは、共同体の交わりを成り立たせておられる、一にして三なる神との交わりに適切ではありません。
パウロがエペソの教会に書き送った通りです。
こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。エペソ3章14~21節
(おわり)