本篇

         ホメられてペンの業            池田勇人
                        
 九才までいた筑波の小田山に、狩野派の画家が住んでいました。家がすぐ近くにあり、よくあがり込んでは、墨をすって絵にするまでの一部始終を、小坊主のように飽きずに眺めていました。あのままずっと田舎にいたら、私は日本画家になっていたかも・・・。気がつけばいつの間にか、絵ではなく言葉でスケッチする方に移っていました。
  二人の女性
 言葉で表現する意欲を育ててくれたのは、二人の女性です。小学三年の時の美しい青木先生は、遠足前日のワクワクする気持ちの詩を、皆の前でホメて朗読してくださいました。「良く書けてるねェ」
 もう一人は私の母なつで、私の文を読んでは「ホントに良く書けてんな」とホメることを忘れない人でした。その声が聞きたくて、今でも書いているような気がします。
  三人の父親
 父なる神はこの地上で、私に三人の父を与えてくださいました。ひとりは文部省国語審議官や大学講師をしておられた霞町教会の塩田長老です。ある日牧師不在の祈祷会で、「では私に」と不遜にも高二の私が立候補し、出エジプト記十四章から紅海を渡らせる神の偉大な力について語りますと、「実に新鮮な説教で恵まれました」と一言。それから説教を書くということが始まりました。気がつけば十七才からもう四十年以上説教を書き続けていることになります。
 二人目の父は、私の生みの親勇二郎です。私の兄姉たちは皆厳格に育てられましたが、私は割りと自由にのびのびと、ヨセフのごとくかわいがられて育ちました。父のことを想うと今でも、愛されていた記憶がよみがえり、涙ぐんでしまいます。この父は実に筆マメで、出会った多くの方々に手紙を書いて証していました。私が一人立ちした時にも、父親として考えていること、私への励ましの手紙を何度もくれました。気がつけば、私はこの尊敬する父親を目標に生きてきたように思います。
 三人目の父は、満江巌先生です。先生から怒られてはつまずき、もうやめようと思いつつもクリペンをやめないでこれたのは、仲間の支えがあったから。そうこうするうち、叱られながらも私に対する愛が肌で感じられるようになり、気がつけば私が後継者のようになっていました。「君はね、思ったことを遠慮して言わないんだよ。そのままだと病気になるよ」と幾度も、個人的に忠告してくれました。父親とは、子どもの弱点を良く知っていて、あきらめずに育ててくれるものだと嬉しくなります。
  書くことの祝福
 書くことで思想は深まり、整えられ、残されます。手紙、日記、説教、詩歌、評論、エッセイなど、何かを書き続けることは、私達が神の恵みを覚え、自分を見つめ直し、さらに脳の活性化にも繋がります。主に用いられる「巧みな書記の筆」(詩篇四五・一)になりたいと祈っています。

一枚のトラクト             浅見鶴蔵
                           
 『聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのことを覚えて祈っています』(エペソ一・14―16)
 
 
 これから先にあるものは何だろうかと考える年になってきました。母親一人で育ててもらい、中学を卒業して行李一つを持って叔父に連れられ、憧れの東京にきました。場所は大関横町、王子電車(今の荒川線の始発駅)の近くでした。
 中小企業のカメラ会社で働き始めました。会社は発展をし、世田谷区梅が丘に三階建ての工場を手にいれました。そして私はそのときから夜間高校に通い、その後青山学院で英語を学びました。が、その工場は五年後に全焼してしまいました。
 ある日私は青山学院の教師から一枚のトラクトをいただき、神田女学院の伝道集会に行きました。そして永福町の朝顔教会(マカルパイン先生)を紹介していただきました。その一枚のトラクトが私をキリストに導いてくれたのです。
 そのあと、聖契神学校の教室から誕生した目黒カペナント教会で、私はW・リグマーク牧師から二番目の受洗者として洗礼を受けました。そのとき先生は「どんなに辛いことがあっても、イエス様は愛なる方ですから、離れないでください。『神は愛です』」と言ってくださいました。
 
そして五十五年、受洗後すぐに役員となり、教育委員長として教会学校の校長を五十一年間勤めることができました。が、その間、倒産を三回経験しました。そしていのちのことば社に入社し、三年目で部長にしていただき、新改訳聖書の責任者として国内の教会四千余を訪問しました。また、アメリカ、イスラエルをはじめ、海外でのバイブルセミナーを含めて、二十回ほども海外に出張をし、大きな経験をさせていただきました。
 
『わがたましいよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな』
(詩篇一〇三・2)
 一枚のトラクトと、「どんなに辛いことがあっても、イエス様は愛なる方ですから、離れないでください」との励ましによって忍耐し、大きな恵みをいただくことができましたことを感謝しております。

私と書くこと            遠藤幸治
                      
 私の書くことの核は何だろうか。「書」の精神は何か、筆(ペン)を手にしながら考えさせられる。キリストに生きる者とされたからにはキリストのことしか書けない。偏ってもいけないが、神の言葉として書かれた聖書から聴いたこと、囁かれたことをそのまま素直に書ければよいと思っている。
 神の声を聴くなんて難しくてわからない。どうしたら神の声が聞けるのか? と思われるかもしれないが、聖書の言葉が自分に宛てて書かれた書物であると信じて読むとき、それは「書」ではなく、「声」だ、と言った人がいる。
 神の声を聴く喜び、そしてその声を聴いて書く喜び、書かずにいられない、伝えずにいられない喜びを書きたいと思っている。が、なかなかそうはいかず、心が揺らぐ。
 この世の雑念が邪魔をし、自分の知恵によって格好よく書こうとする。自分で書いた原稿を「これで良いだろう」と思って書棚に置く。だが、次の日に読んでみると直したくなり、書いては捨て、捨てては書く、その繰り返しである。
聖書は神の声だと言ったが、旧約の預言者エリヤは、聖書の言葉を食べたと書いている。食べなければ実につかないし、力も出ない。書く前に神の声、人の声(話)を聞くことが、私の文章を書く前提となっているような気がする。
 私は狭い部屋に閉じこもりがちな一人の老人である。寂しくないと言ったら嘘になる。しかしそこには父なる神との対話が許された奥座敷のような空間がある。透析ベッドもそうである。主イエスによって、神と近い者とされた幸いを身に沁みて感じる。聖顔を仰ぎ見る喜び、聖書をはじめ他の本を読みながら感じた言葉を書き記し、小さ冊子にしている。
 主日礼拝の宣教のテープおこしを任じられて三年が経つ。礼拝に出席できない方から、宣教の内容がよくわかり、「嬉しいです。ありがとうございます」との電話や、メールが来たときは、主に用いられた喜びが一層増してくる。
 日記も書くには書くが、あまり熱中できないでいる。三日坊主が重なり、思い出しては書いている始末である。
 「古日記晴れだけ書いてあとはなし」
 手紙も、肉筆で書いてくださったものには温もりを感じる。自分もそうしたいと思っている。
 主イエスの弟子たちは、主のみ声に聞き従い、わたしたちに福音書を残してくださった。使徒パウロもペテロも、他の弟子たちも、各教会に手紙を書いて送っている。新約聖書は手紙から成っているような気がする。聖書の言葉が、私に宛てて書かれた手紙だとすれば、返事(応答)をするのは当然である。神の愛に対する応答が、私の「書」なのかもしれない。

伝道というよりお誘い          北川静江
                          
 私は、個人的に教会へ「行きましょう」などという伝道は苦手で、どうしても言えませんでした。そのことが重荷で、どうしたらよいか悩んでいました。
私の教会では「クリスチャン新聞福音版」「きぼう」「教会月報」(伝道向けの証)を毎月、一人ひとりのボックスに三、四枚づつ入っており、伝道用に用いているのです。
 私は数年前祈っていて示され、うちの住宅二〇数軒の家に、三軒に三か月続けて配ることにしました。「入れないで下さい」と言う人や、明らかに他の宗教に熱心な家には入れません。三か月経つと次の家三軒に三か月と言う具合です。
毎朝デボーションの時間に「七月から九月まで、Aさん宅Bさん宅Cさん宅に配っています、どうか読んでいただけますように」と祈っています。
 昨年十一月、教会の女性会で手芸の時間に皮の栞作りをしました。とても可愛い栞がたくさん出来ました。一枚づつ、クリスマス案内と一緒にラッピングして、私は住宅内の同年輩のUさん宅のポストに入れたのです。
 後日Uさんから電話で「素敵な栞と案内のプレゼントありがとう、本が好きだから、栞を使わせていただきます。私は賛美歌を歌うのが好きだから、クリスマスに一緒に教会へ行って歌いたい。歌だけ好きなんです、聖書やお話は苦手です」と言うのでした。初めて教会にご一緒しました。愛餐会にも、午後の祝会にも残ってくれました。嬉しかったです。
 JCPの証集や詩歌「ロバの背中で」なども、ポストに入れました。
 今年の六月、クラリネットコンサートが開かれるので、一週間くらい前にチラシをUさんのポストに入れました。 Uさんから電話で、「柳瀬先生の素晴らしいクラリネットを近くで聞けるなんてありがたいことです。是非一緒に聞きに行きたい」と言われ、喜んでご一緒しました。Uさんは感激して聞いておられました。終わって、「丁度山形からさくらんぼが届いたから柳瀬先生に食べていただきたいの、北川さんから渡してください」とさくらんぼの包みを差し上げました。そしてCDも買って喜んで帰りました。
 Uさんは教会へ二回行くことができました。ここまで来るのに十年以上かかっています、これから普通の礼拝に出席してもらうにはどうしたらよいか、祈るしか方法は考えられず、ともかく住宅内の一軒一軒のご家族の健康のためと、読んでいただけるように、読んだら心の琴線に主が触れて下さるように、と、祈り続けています。
 時々初心を見失うことがあります。私はどのようにして救われたか、思い返すことにしています。私は三十数年前、心が非常に渇望していたとき、一枚のトラクトによって救われました。その文章が私の心に電撃のような感動を与え、教会を訪ねて、信仰生活に入ったのです。家族が次々救われていきました、紆余曲折はたくさんありましたが今日まで保たれています。

『神のなさることは皆その時にかなって美しい』(伝道の書三章十一節)神のご計画を信じて毎日祈っています。

手紙                駒田 隆
                       
 パウロは、多くの手紙を信徒や教会に送っています。その手紙は、今もわたしたちにイエスの福音を伝えています。新約聖書には、パウロの名前を記した手紙が十三ありますが、それ以外にも八つの手紙が残されておりました。わたしたちは、その手紙を読みながら、イエスの愛に触れており、それだけこれらの手紙は、パウロの時から多くの人に影響を与えているのです。手紙の持つ効果には、計り知れないものがあるのです。
 わたしが、あかしの文章を書くようになったのも、これらの手紙に触発されたからにほかなりません。もちろん、これらの手紙の作者のように、わたしは、信仰豊かではありませんが、自分が知りえた福音、いえ、自分が経験した福音を、多くの人に知ってもらえば、福音の種は、それがどんなに小さくても、芽をふくのではないか、と思ったからです。小さな種かもしれません。少し、いびつな種かもしれません。しかし、信仰は、個人の心に芽生えるものです。わたしのささやかな、エッセー、詩、学びなど、それらを読んでいただいて、イエス・キリストのことを思い、小さな、小さな福音の灯がともってもらえば、それで幸いなのです。
 ノン・クリスチャンであった芥川龍之介は、最後の死の床まで書き続けていた、『続西方の人』に、「……しかしわたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけてゐるクリストの姿を感じてゐる。わたしのクリストを描き加えるのも、わたし自身にはやめることは出来ない」(『西方の人・1再びこの人を見よ』〈『芥川龍之介全集・第九巻』二五七ページ*岩波書店・一九七八年〉)、と書きました。佐古純一郎牧師は、この「感じる」が「信じる」に変る時、それは信仰告白になる、と書き、「……福音信仰は『私の福音』、つまりこの佐古純一郎のためだという心で信ずる信仰でなければ、それは生きた力にはならないですよ」(『パウロと信仰』一六三ページ*朝文社・一九九二年)、と続けています。
 わたしのささやかな言葉が、読んだ人の心になにほどか残って、イエス・キリストへの信仰に変わってくれれば、わたしにとって、これほど大きな喜びはありません。大上段に構えるような伝道は、わたしには出来ません。道端の名もない小さな花が、人の心をつかむように、わたしの小さな言葉が、その人の心に福音を感じてもらえば幸いなのです。そんな思いが、わたしのあかしの文章作りの出発点でした。恐らく、これからも変わることはないでしょう。そして、神様は、すべてをご存知の方です。わたしのつぶやきも、見逃すことはありません。それならば、わたしの思っていることすべてを、善いことも、悪いことも、すべてをさらけ出していきたい、と考えています。イエス・キリストは、わたしの父なるイエスなのですから。

 きっかけとなったこと         佐藤一枝
                          
一九七八年七月十五日に「クリスチャン新聞」から発行された「愛といのちへの出発」(キリスト教あかし文学選集Ⅰ)という単行本をお持ちの方もあることかと思います。
 今年は二〇〇八年ですから丁度三十年前になります。私はその年にはまだ五二歳でした。
 いのちのことば社の雑誌部「百万人の福音」で協力レポーターとして「キリストの証人」の取材をさせていただいておりました。
 そんなことから度々「いのちのことば社」に出入りしているうちに他の部の方とも顔見知りの方が何人も出来てきました。
ある日「クリスチャン新聞」(当時は本社内にありました)の方から電話があり、「『あかし文学賞』に応募してみませんか、詳細はクリスチャン新聞にのっています。待っていますよ」
という事でした。私は電話を切ってから、散々悩みましたが祈って書く決心がつきました。一九七七年十月頃だったと思います。応募のはじまりが九月で〆切りが翌年の三月とあったのを覚えています。何とか規定の原稿用紙五十枚にまとめて郵送したのは〆切り間際でした。内容は熱心なクリスチャンの叔母と妹のことを書いたのですが私の文章は自分でも平凡すぎると思え、本にのるとは思えず最初からあきらめていました。
結果は選外佳作で一応掲載されることになりました。選者は、三浦綾子氏、阿部光子氏、島村亀鶴氏、水谷昭夫氏、千代崎秀雄氏でした。入賞該当者は無く、準入賞二人、佳作三人、選外佳作四人、私はその四人の中の一人でした。
それでも九人の証し文章が載った単行本が贈られてきた時には、嬉しくて一日中ニヤニヤしていました。選外ということが皆に知られるのがちょっぴり恥かしかったですが、それを上まわって単行本に掲載されたことは、大きな自信につながって、「百万人の福音」の取材にもとても励みがつきました。

翌年の夏、JCPの夏期学校に誘われて参加し理事長の満江巌先生の文書伝道にかける情熱に只只びっくりし、私も証の文章を使命として生きたいなあと、帰る時にはJCPに入会を申し込んでいました。思えば、それ以来、通算二十年近くになるでしょうか。途中主人が癌に患り、天に旅立ったりし例会を暫く休んでそのまま退会してしまったのですが、池田勇人牧師が理事長になられてから復帰させていただきました。

今は、JCPの学びとお交わりが、かけがえのない私の支えです、感謝です。証の文章を書き続けて行き、それと並行して「詩歌の会」の学びも本当に楽しみですから、JCPから生涯はなれないつもりです。JCPの諸先生、諸先輩から、キリストの恵みを証する喜びを教えていただき感謝でいっぱいです。

書くことの原動力      土筆文香(島田裕子)

子ども向けに童話や小説を書き始めて十七年になります。作品ができると児童文学同人の合評会に持っていき、厳しい批評を受けています。
 構成が悪い。登場人物の性格の違いがはっきりしない。情景描写が足りない……など言われ、何度も何度も書き直します。書き直したものを持って行っても、これでよしなどと言われることはまずありません。
 ダメなところばかり指摘されて、書く気力さえ失ってしまうことがあります。それでも気を取り直して書き続けます。どんなことを言われても書き続けられるのは、作品を通して子どもにキリストを伝えたいという思いがあるからです。
「上から助けが与えられるというストーリーではダメです。テーマを考え直して下さい」あるとき児童文学の会でこのように言われました。言った方はクリスチャンではありません。さらに、その方は言われました。
 「主人公が努力して自分の力で勝ち取っていくストーリーに書き換えれば、素晴らしい作品になるでしょう。作家としてデビューしたいなら、言うことをききなさい」
作品が認められること、作家としてデビューすることが書くことの目的だとしたら、わたしはその方に言われたとおりに書き直したでしょう。でも、わたしは書き直しませんでした。
 その後、色々なところに投稿しても入選することがなく、書くことがみこころではないのかもしれないと思いはじめたとき、なぜ自分が子どもたちにキリストを伝えたいのかを改めて考えてみました。中学二年の時、生きる意味が見いだせずに毎日が虚しく、死を願う日々だったこと。そのようにつらい思いをしている現代の子どもたちにキリストを伝えたいと願ったからこそ書いてきたのです。  
原点に立ち返って必死に祈りながら書いた作品に小さな賞が与えられ、その後、別の作品で一冊の本を出版していただきました。
 現在はファンタジーの長編に取り組んでいますが、ファンタジーはそれまで書いてきたリアリズムの作品より何十倍も難しいのです。わたしの知恵、文章力、想像力……持っているものすべてを総動員させても書き上げることは不可能です。わたしには無理なのだと半ばあきらめの心境になったとき、神様には不可能ということがないと気づきました。
「神様、どうしたらいいのですか?」と祈ると、『神の国とその義とをまず第一に求めなさい』のみ言葉が示されました。小説の書き方を学ぶより、まず神様のことを第一に求めるべきだといわれたように思いました。
 具体的にどうすればいいのだろう……と考えていたちょうどそのとき、0聖書学院で聖書科通信の学びがあることを知りました。それで、とびつくように旧約聖書の学びを始めました。学びを通して神様がどれだけわたしのこと愛しておられるかがわかって、胸が熱くなりました。
この熱い思いを作品に託そうとペンをとりました。この思いの高まりが書くことの原動力となって、書き上げることができたのです。私の知恵でも力でもなく、主の力によって書き上げられたのだと確信し、感謝しています。

書けそうで書けないあかし       島本耀子
 
不定期の発行ですが、私の教会では、トラクトを手作りしています。それには、必ず会員のあかしが載ります。お願いすれば大抵の方が書いてくれます。
 最初の頃は、メモ書きでも、箇条書きでも結構ですから下さい。私が編集して出来たのを見て頂きますからと、今思えば、かなり不遜なことを言ったものですが、その必要は無く、皆さんが、きちんと纏まった文章を下さいます。
 ただ、全員が一回りすると、同じことを書く人が出るでしょう。話の中でも同じ内容が繰り返されています。大切なことは何度でも伝えたいからです。
 私も何か書きたいと思いながら、手紙以外には何も書けなかった時期が長くありました。それでも不思議なことに、PTAや教会の奉仕では広報の役が回ってくるのです。
 読むことは大好きですから、盲人のための朗読奉仕を始めました。録音の後には校正がありますから、一字一句でも厳しくチェックされます。私が、誤字などに、人より神経質なのはそのためです。
 クリスチャンになってからは、キリスト教伝道のための本を読むようになりました。ところが、キリスト教関連の本は、小さな出版社から出るのが多く、間違いが多いのです。ワープロの変換ミスがそのまま印刷されたりしています。
 これなら、私にも書けるのではないかと思えてきました。その後、随筆を書くグループが見つかって入れていただきました。でも、先ずは修行と思い、日常雑記などを思いつくままに、書き散らしていきました。お仲間は、写経の体験や、寺社めぐりの話等、遠慮なく書いてきます。
 そしてとうとう、私は映画パッションについて書きました。すると早速、講師からクレームが付きました。キリスト教を知らない人ばかりですから、かなり控えめに書いたつもりですが、この場にそぐわないというのです。そして間もなく、私はそのグループから離れました。
 ここでクレームの付いた作品は、誰に遠慮も無くなりましたので、思いのままに書き直しました。他にも、同じくらいの長さのものを文案して、「私の一冊」が出来そうになりました。今まで読んできた本が、参考になりました。それは、あかしというより随想に近いものだったでしょう。
そんなときに、クリスチャン・ペンクラブに出会ったのです。随筆の講師から、書いているクリスチャンがいると教えられたお陰でした。心にあっても、随筆から抜けると言わなければ、次の道は開けなかったでしょう。それまでにも何度か、似たような経験をしています。神様はいつも、備えてくださいます。
さて、それから、あかしをどんどん書いたかといえばさにあらず。書けそうで書けないのが、あかしです。他人のことはとやかく言えない自分に気が付きました。私も、同じことを繰り返し書いてしまっています。「私の一冊」も、ストップしたままです。
同じことを繰り返し書いてしまっても、自分自身の思いは少しずつ変化していきます。昇華と言っては驕りですが、自浄作用は確かに感じます。これからは、導かれるままに、あかしを書いて行けたらと切に願うばかりです。

     ずっと書き続けたい        土屋 理絵 
                                                      
幼いころから書くことが好きだった。
旅先でも毎晩欠かさず日記を綴っていた父の姿は我が家では当たり前の光景だ。私も自分のノートに童話や日記を書いては、家族に感想や誉め言葉を求めていた。
また、宿題でもない作文や思いつきの文章をせっせと先生の元へと運び、時にはそれが朗読されたり、また文集に載せられたりした。原稿用紙に書いた拙い文字が立派な活字となった満足感。みんなの前で先生が自分の作文が読み上げられている時のドキドキ。書くことの喜びは、読んでもらうことで数倍にもなった。
やがて娘が生まれ、初めての育児は苦労、笑い、感動の連続。毎日が題材の宝庫だ。家で書き溜めるだけでは飽き足らず、乳飲み子の娘を実家へ預け念願だった作文教室へ通った。元新聞記者の先生が「わかり易く一度ですっと頭に入る文章」「タイトルに拘る」というコンセプトで添削してくれた。赤の入った作文はスッキリ整然とした仕上がりで毎度唸らされ、文章を書く楽しみはますます膨れていった。

昨年、私は洗礼を受けた。
以来、仲間と共有しているブログの内容が明らかに変わっていった。それまでの「偶然」「ラッキー」「強運」という言葉が、「神様の導き」「神のご計画」に代わった。読者は信者、未信者半々であったが、双方から快く受け入れられ、それが嬉しくてたまらずまた次々と書いた。
信仰を持って半年余。みことばも数えるほどしか知らない。聖書的な引用や信仰面の深い話はまだまだとても書けない。でも、受洗以来神様から数え切れないほどの恵みと祝福を与えられていることへの感謝の気持ちを新鮮なうちに記しておきたい。心の拠り所があることの安心感。祈りがきかれた時の感動。未信者であった作文教室時代には書けなかったことばかりだ。
 神様に愛される喜びを伝えること。それが今の私の文章を書く喜びだ。こんな大きなテーマを与えられたことを光栄に思う。信仰を持ったことは、書くことの新たなスタートとなった。

受洗後すぐにクリスチャン・ペンクラブに出会った。初めて参加した時、それまでにはない体験をした。もちろん初対面の方ばかりなのに、どこかでお会いしたような気がするのだ。これが神の家族というもの・・・。
証し文章を書くことで出会うことができた大切な大先輩方に囲まれながら、感謝し、学び、努力し、ずっと書き続けていきたい。

私とあかし文章            富岡 国広
                      
 「神の愛」と「罪人としての私」。「私とあかし文章」のテーマが与えられた時、まず私の脳裏に浮かんだのがそのことでした。
 それは聖書全体を貫くテーマと言いますか、柱そのものであります。無論、これを文章にすることは決して容易ではありません。
 そこに具体性がなければ、なかなか相手に伝わらないと思うからです。「神の愛」一つをとってみても分かります。主の十字架上での死にこそ「愛(アガペー)」があると何百遍くり返し強調してみても、罪の何たるかを知らない人にとっては絵に描いた餅にすぎません。
また、ヨハネの福音書を具体的な「神の愛」として引用してみても、自分の内に「神の愛」の打ち震える如き経験がなければ、言葉にすぎないのではないのでしょうか。このことは、「罪人としての私」についても同様のことが言えると思います。それでも、確かに書くことはできるでしょう。み言葉の真理に照らして己の罪を幼子のように素直に受け容れることは、実は大変な絶望感や苦しみを通してでなければ得られないと思います。そのことを教えられるのに、私自身かなりの歳月を要しました。ですから、もう書くのは止めようと何度迷ったかしれません。誰にでも紆余曲折があるように、私にも右へ左へと心が大きく揺れ動く時期が長く続きました。
 私が「あかし文章」を志すまでには、前に述べたように、いわば産みの苦しみともいえる先の見えない長いトンネルがありました。たとえ書いたとしても、無味乾燥な言葉の羅列でしかありません。こんなことなら、もう書くのは止めてしまおうといった思いがどのくらい続いたでしょうか。それでも「私」と「文章作り」はもはや切り離すことができません。言ってみれば、体の一部にさえなっていたのです。
 書くことがままならない時に、娘の成長を中心に日記を書き続けてみました。また、聖書を読み、霊の満たしを祈り、み言葉に示されたことを素直に書くという作業をくり返したりもしました。それは、今思えば換え難い貴重な日々となったのでした。一日、また一日と積み上げていく、日記を記すという地味な作業によって、文章表現がどれほど深められ広がりをもつことができたかしれません。そのことに気づかされた時、私は初めて「主の救いをあかしする文章伝道」への幻を与えられたのです。
 「こんなことをしても無駄でしかない」とか、「まるで意味のない文章をつづってどうなるんだ」といったような、毎日が自虐的に思えるような日々の中にあっては、書くことが体の一部であったにもかかわらず、私には行く手にかすかな希望の光さえ見えませんでした。しかし、主の御霊によって、「あかしの文章」を書くという幻が与えられた現在(いま)、これまで歩んできた道程の全てが神の光の内にあって、決して無駄ではなかったのだということを知らされたのでした。これこそ、正に神の恵みそのもの、「神の愛」をあかしする「あかし文章」の中核を成すものであります。

忘れえぬ人 ジェイコブ オロンマイン   中村日出子
                           
 夫とともに寄居の教会に赴任して間もなく、主日礼拝に数人のナイジェリア人の青年が始めて出席した。バブルの真っ最中の日本は、地方の工場でも人手が足りず、多くの外国人労働者を受け入れていた。田舎の古い教会に黒人の青年は大変珍しく、違和感を覚えた教会員もいたようだったが、夫も私も、集う人々が少ない教会にようこそ、の思いで、すぐに親しい交わりが始まった。彼らの中の一人、ジェイコブは最初の訪問の帰りに、「この教会に十一献金を捧げます」と言って帰っていった。程なくバブル経済は終わりを告げ、一人二人と町を去って行く中、ジェイコブだけはよく礼拝に集い、日本語も上手になっていった。やがて、町内の小さな印刷所に職を得、社長家族にも気に入られて、夫と私は喜んで見守っていた。
 「マダム中村、きょうは社長の息子がカラオケに連れて行ってくれました」というような楽しい報告を聞いていたのに、この工場も仕事が少なくなり、彼はだんだんと居ずらい状態にさせられてしまった。
 ある寒い朝、一か月分の給料も貰えずクビになったとの電話。驚いた夫は社長に電話をして、「一体どういうことなのか」と問いただすと、ジェイコブのためにシャワー室を造ってやった、それがちょうど一ヶ月分の給料に相当する」という。さらに、「黒人なのに、偉そうな口をきく」、「ドイツに行きたいなどと身の程知らずのことを言っている」とまくしたてて、自分の正当性を主張し始めた。夫は、「わかりました。シャワー室がジェイコブのものなら、それを取り外して持っていきますよ」と怒鳴り、私もそばから、「外人をいじめて何が楽しいのですか。それでも貴方は社長ですか!」と、いま思い出しても、良くあんなことが言えたなあというやり取り。すぐに車で駆けつけると、残雪の庭に、荷物を全部投げ出され、しょんぼりと佇んでいるジェイコブ。とりあえず、荷物と共にジェイコブを乗せて、その場を離れた。
 翌日、夫はジェイコブをつれて社長を訪問し、一か月分の給料を出させる交渉を始めた。社長は首を横に振るだけ。夫とジェイコブは「給料を出さなければ、出るところに出て徹底的に戦うぞ」と迫った。夫は社長と二人だけで談判した。「半額なら出そう」。「全部でなければ駄目だ」。「五万円負けろ」。ねばること数十分。最終的に夫が「私が社長に三万円出そう、ジェイコブには全額払ってくれ」ということで折り合った。ほっとしてジェイコブを呼び、「給料が全額出たよ」。給料袋を受け取った彼を車に乗せ、エンジンをかけようとしたその時、社長が追いかけてきて、「牧師から金を貰うとは寝覚めが悪い。全額払いますよ」と言って、三万円を返しながら「それにしてもあなたがたは暴力団のようですな。本当に牧師さんですか?」
 何年かしてジェイコブは本当に、ドイツへ旅立った。最後の献金を私たちに託して。出国ゲートへ消えていった彼はまるで、みにくいアヒルの子が白鳥になって大空高く舞い上がっていく姿そのものだった。
 カールスバード、フランス国境に近いこの町で、今、彼は事業に成功し、ドイツ人の妻と三人の子供という家庭が与えられている。夫と私は再会を楽しみに日々彼のために、これからも主が最善を成してくれることを祈り続けている。

それは祈り               西山純子
 
 あかし文章は「聖書の引用や説明ではない。自分自身の言葉で、自分のことを書くのだが、究極的に自分の誉れではなく、神に栄光をお返しするーそれが信のあかし文章だ」と教えていただいた。
 自分はクリスチャンであるという立場に埋没してしまい、反って、今の自分が一番書きたい、クリスチャンである自分が伝えたい文章を書いていない場合がある。いわゆるクリスチャン特有の匂いを放つ、クリスチャン同志にしか伝わらない文章を書く怖れを持つことがある。
 読み手の心をしっかり掴む文章は、自分を越えた祈りの中で書けるものなのだろう。どうしても書かせていただきたいという願いがわきあがった時、ミケランジェロが石の中から彫り起こすよう示されて彫像ができたように、信のあかし文章は書かせていただけるのかもしれない。
 欠けの多い、また、ごく平凡な私は強烈な体験の後に信仰を与えられたのではない。神の与えて下さった人生を比較的ごく素直に感謝しつつ、こんなに小さな者にも公平にひとり子主・イエスキリストの犠牲の上に、罪の赦しと救いを下さった恵みに感謝の多い日々を重ねてきた。
 留守中に帰宅するであろう家族に《教会祈祷会で出かけます。お昼は冷蔵庫に。電子レンジでチンをして召し上がれ。帰宅は三時頃です。これからの時間があなたにとって、快適な恵み豊かなものですように》息子へのメールに《元気?心身の健康を守られてね。今、もしストレスのある仕事の中にいても、やがて感謝に変えられますように》
介護の中にある友人へ《お久し振りです。いかがかとお案じしています。アルトの声が素敵だった貴女を思い、共に讃美できたらと願っています。生かされてきた年月の中には思うに任せないことも多くあった、けれど、その時の養いや蓄えが、今の支えになっていると思い起こす私です。どうか、どんな時にも守り支えて下さる神さまのお働きが、ご一家の上に充分でありますようにお祈り申し上げます。お返事はお気遣いなくね》
 贅肉を削って削って仕上げた、四百字のあかし文章の時代から今日に至るまで、大きな学びと訓練をいただいた。
その宝を、日常の中で、教会以外の友との関わりの中で、町内の隣人の中で、率直に明快に用いさせていただきたい。
一通のはがきに、回覧板の二、三行の伝言文にも生かせる者でありたい。 

結婚五十年 証しの始まり    長谷川乃武男
                        
 私がJCPに入会したきっかけは、毎週のように週報の片隅に「先週の説教の要旨を決められたスペースの中に掲載していたため、要領よく書き込む作業を強いられていたので、「止むなく入会」と云う次第。
 あれから早や二十六年が過ぎていった。文章の方は相変わらずでB、進歩したのか、していないのか、さっぱり分からない。当時在籍していたペン友は、今ではほとんど見当たらない。現役では私を加えて数名だろうか。
 毎年のように題材が決まると、その都度原稿提出ギリギリで応募する始末。それでも数年前から考えていることがある。それは、入信してから四十年も経ったのに、それらしい証し文章を一編も書かずで、天国へ行くのもなんだか心残りのような気がする。
 何も長編でなくても、ポケットに入るような「文庫本サイズの証し集」でも書きたいもの。歳を考えると一寸ばかり無理かな。それでも折に触れ、ほんの少しばかり原稿を書いてみたのだが、書き始めてみると、結構欲が出て、あれも書きたい、これも書いておきたい。と言った具合で、少しも前へ進まない。一体いつになったら纏まるのだろう。
 そんなときペン友から証し集が届いた。早速読ませていただく。あまりの上手さに引き込まれて一気に読み進む。とたんに自分の書いた文章が幼稚に思えてくる。恥ずかしくて書き続けるのがおっくうになってしまう。これで書きかけたまま放棄してしまう。
 しばらくするとあのままでは、どうしてもあきらめ切れない。何しろ四十年の信仰生活の中にはちょっと思い出しただけでも、いろいろの事件や得難い体験をした。思い出すままを数え上げるだけでも「文庫本」の二~三冊ほどに成りそうだ。
 その中には、信仰成長に役立ちそうなもの。苦しみ悩んでいる同輩や後輩の方々にとって大いに参考になりそうな体験談、信仰とはこのような受け取り方や、歩み方であるべき等、読んでくださった方には、結構お役に立つのでは。信仰年数ばかり長くなり、神の御子イエス様と出会ってから、数え切れない程多くの恵みと祝福に与りながら、感謝の証しも書き残すことなく、地上を去って行くなんて。とてもこのまま地上を去って行くわけにはいかない。
 私にだけしか体験できなかった「恵みと訓練の証し」を気張ることなく書き続けることにする。どのような「証し文章」になるか、皆目検討がつかない。分かっていることは結構ドラマチックなものになるような気がする。乞う。ご期待。と言うところ。
 これから忙しくなりそう。こうしちゃ~いられない。歳を取るのもできることなら遅らせたい。でもそれは無理なこと。時間を有効に使うよう心がける。これあるのみ。
今年「結婚五十年」を迎えた。愛妻と連れだって「オータムジョイフル」に参加した。決意を新たにして。

不信仰の四十年を変えたイエス様    長谷川保美
                        
 私の家は三代に渡り、移民としてアメリカへ行っていました。当時移民として出て行くには、クリスチャンになり信仰を持って行くという条件があったようです。 しかし、急ごしらえの信仰らしく、聖書の深いところは何も理解できない様子でした。
私が生まれると少し前に、曽祖父がアメリカから帰りました。
 私が小学生のころ曽祖父は、朝、川で顔を洗うと、そのまま立って、何か熱心に祈っている姿を、毎朝見るようになりました。私が近くで何やかや煩わしくしたり、おどけたりしても、祈りの姿勢は変えないで、静かに祈っている姿は子供でも気になりました。
 あるとき「おばあ様。おじい様は川の端で何をやっているの。」と聞きました。曾祖母は「あれはヤソになったからな。ヤソの神に祈っているんだろう。」
 曽祖父の祈っている川端には、大きな欅の木が何本もあり、周りには胡桃の木や栗の木も何本もあるので、どの木に向かって祈っているのだろうか? 思案しましたが分かりません。
 そこで私は、曽祖父に「ヤソの神ってどんな神様なの。」と尋ねました。おじい様は「そうか、そうか。」と言って、「アメリカのおじい様はな、たくさんの献金をしていて、教会でも大事にされ、仕事もうまくいっているんだよ。日本のお寺も同じように、お金をたくさん献金する人は、神様にも大事にされるんだよ」
 お金次第で、物事がうまく行く。という言葉を聞いた時、子どもなのに、金の無い人はどうなるんだろうと。そんな神様は変だ。神は要らない。私はすっかりかたくなになり、その日以来すべての信仰を否定し続けました。四十年間も。
 しかし、ある問題を通して本当の神様の御言葉からイエス様の愛を知ることができました。
 特に(ローマ書十章十四~十七節)の御言葉を通し、今の恵を一人でも多くの人に、あらゆる方法で伝えなくてはいけない。そのひとつに「あかし文章を書く。」ことも入ります。
 ちょっとした説明不足やまた人間的な言葉のために「イエス様の本当の愛を伝えられなかった」というようなことのないように、みことばを忠実に語り続けていきたいと願っております。

与えられた使命感           長谷川和子
                         
 七月二十六日、教会でささやかな告別式が執り行われた。故人の名はS兄という。二ヶ月前に病床洗礼を受けたばかりであった。
 二月の寒い日に凍った雪道に足を滑らし転倒。以後ひどい腰の痛みに、「骨が折れたのでは?」とあちこちの病院で診てもらったが、「異常はない」ということであった。やがて、その痛みは腫瘍が原因だとわかった。
 抗癌剤が投与、副作用のため下痢と便秘に悩まされ、やがて食欲も落ちていった。
 妻であるN子姉は幼い頃より信仰をもち、我が教会員である。夫の病名に頭を殴られたような衝撃と動揺を受け身の置き場がないほどであった。だが徐々に現実を受け止める気持ちの余裕もでき、神に祈る日々と変えられた。
 最上階の特別室は二人が過ごすには広すぎた。夜になると、「さいたま新都心」の灯が宝石のように輝き、夫婦の心を和ませてくれた。この頃になるとS兄は現実の病いを認識し、治す気持ちへと意欲が湧いてくるようになっていた。
 祈りと賛美歌を唄うN子姉の姿を見て「洗礼を受けたい」とS兄は気持ちを表した。N子姉がムリに勧めたわけでもないのに…。
 
 この夫婦には長男と長女がいたが十数年前息子(二十歳のとき)を交通事故で亡くしていた。キリスト者になったら「天国で息子に会えるかも…」という思いがあったようだ。
 教会に一度も足を運んだことのないS兄は「どんな所だろうか」「治ったら二人で教会に行こう」としきりに言っていたという。
 そんな話をN子姉より聞いた私は聖句をカードに何枚も書いて送ったり、病室を訪ねては渡したり、S兄のベッドの側でも祈らせていただいた。何よりも心身共に疲れ切っていたN子姉の話相手になれればと願った。
 
 「主人は教会に来たがってました。僕のできる仕事(奉仕)はあるのかと申して、教会で営繕の仕事をやってトンカチを打っていた夢をみたよ…とも言ってました。退院して教会に来られるものと思っていたんです」と皆さんへの挨拶の中でN子姉は夫の気持ちを淡々と話された。

 私たちは何故証し文章を書くのでしょうか、S兄のことをここに記さなければ知ることは出来ない。人生の最後の時、天を仰ぎ主に従う決心をされた一人の兄弟がいたということを。だからペンで証していく使命が私たちにはあるのではないだろうか。
 「滅びないで永遠の命を得るために…」全ての人々が主の恵によって救われてほしいと願うからである。
 キリスト者としての道程は千差万別、それらの人々の生きざまを文章によって表現し、一人でも多くの方が「教会に行ってくださるように」私は今後も証し文章を書き続けていきたいと思っている。

闇の中の体験             堀川きみ子
                  
    金木犀
   庭にこぼれた    金木犀
   一つ、二つと    手の平に
   乗せれば小さい   星の砂
   星の国より     まだまだ遠い
   天の御国に     居る 母さん(一九九五年母死す)

 秋の香りを国中に静かに放つ、金木犀の花が開こうとしています。初めてのあかし文は「記名票と金木犀でした。神に導かれた旧会堂での信仰生活を書きました。JCPに入会して後は「あかし新書」の四百字の短文が私の記念碑として残されました。
 三十六年の信仰生活は、神の堅固な守りの中に置かれていました。大きな試練に会うことなく、恵まれていました。私が神の前に立てた約束「家族の救い」が、十年前に果たされて、安堵感に浸り知らない内に傲慢の種が芽生えていたのかもしれません。
 三年前、娘たちに大きな試練が襲ってきました。一人は離婚、もう一人は難病。問題が解決しない上に、さらに大きな問題を抱えることになりました。悲しみ、苦しみの大波が打ち寄せてきました。嵐の中にいるような毎日でした。日々、涙を流したので顔も変ってしまいました。自分の顔を見るのも嫌でした。周りの人もさぞ嫌だったでしょう。汚い思いや言葉が溢れてきて一人呟いていました。
 表現できない程の強い怒りが不信感と一緒になって襲ってきて、私は物に当たり散らしました。そうしないと窒息しそうでした。理不尽に思えました。二年間そんな日々でした。
 ついに忘れられない事が起こりました。それは夜の事、ウトウトしながら私は自分の泣く声で目が覚めました。泣き声は次第に大きくなり隣に寝ていた主人が「どうした、どうした」と言っても止められず泣き続けました。まるで犬の遠吠えのような声でした。それまで蓄積されていた心の中の深い深い闇の底から「もう我慢するのは嫌だ、嫌だ」と叫んでいるのでした。
 その事があってから、心の内が少し楽になりました。神は私が吐き出した汚れを吸い取り、涙で洗い流してくださったのかもしれません。自分は罪人なのだとはっきり分かりました。「あれも、これもしました。なのになぜ? どうしてこうなるの?」自己義認や自己中心、思考と体がアンバランス、自己破壊寸前。回帰不能地点の直前で止んだ心境でした。
 この間、牧師夫妻や多くの信徒の方々の影のお祈りがありました。以前にいただいていたイザヤ四十三章が心の支えとなりました。荒波の中で聞いた「主権は、わたしにある」の御声。マタイ二十八章十八節、天においても地においても権威ある神。あなたの前にはただひれ伏すのみ。という体験をしました。娘二人も新生活へ、職場へとスタート。わが家も人生の荒波をくぐって危機を乗り越えようとしています。

荒野のプレゼント           三浦喜代子
 
あのころはみんなが文学少女だった。
昭和三十一年、中学一年生のとき、本好きの友だち四人で読書会を結成した。『紫苑会』と命名した。まだ源氏は読めなかったが、紫式部に憧れてその一
文字を使った。なんだか偉くなったような気がした。
最初に井上靖の『あすなろ物語』を、次に藤村の『桜の実の熟するとき』を読んだ。ノートを廻して感想を書き合った。が、三冊目はなかった。ノートが行方不明になり、メンバーの気も失せてそれきりになってしまった。
それからは、一人で読み一人で書いた。高校では文芸部に所属した。
 その熱気の前に、立ちはだかるものがあらわれた。イエス・キリストへの信仰であった。
十五歳で救われて以来、私のたましいはまっしぐらに神へ向かっていった。説教通りの生活を目指し、教会が中心になった。聖書以外の書物に熱中するのが後ろめたくなった。同時に、書くことにも迷いだした。何を書けばいいのかわからなくなった。大きく言えば文学と信仰のはざまで立ち往生したのである。
 二十代半ばのある日、ついに私は主の前に全面降伏した。
「神様、読書も創作もいっさいおささげします。みこころのままにお導きください」と祈った。以後二十余年、聖書以外の本を読むことはなく、証し以外の文章を書くことはなかった。
 待っていたかのように何度も激しい人生の嵐に見舞われた。主の愛の訓練であったと思う。もちろんそのときは喜ばしいものではなかった。(1)文学の他にも多くのものを失った。健康を損ない、経済は破綻し、ついに母子家庭になった。
 たった一つ、神様は信仰の杖だけは奪うことはなかった。難破した船を下り、杖にすがって二人の娘とおぼつかない歩みを始めた。悲壮感を抱きながら…。
 と、意外にこころ楽しいではないか。水もパンもない荒野のはずが、なんと盛んに花さえ咲いているではないか。(2)
 主の愛があったのだ。かたわらをイエス・キリストが歩いておられた。
 「そうだ。イエス様がおられるのだ。主の愛があれば、この愛さえあれば、きっと、生きていける」と強い確信が与えられた。
突然、開かずの扉が開いて、書きたい思いが噴きだした。不思議なことだった。
書くこともわかった。どうしても見つけられなかったテーマが巨大な横断幕のようにくっきりと青空に広がった。
 「キリストのすばらしさを書き、伝えること」であった。
 クリスチャン・ペンクラブと聖書学院に導かれ、キリスト教雑誌のあかし文章に応募し何度か入選した。神様がVサインをしてうなずいておられると信じた。
 文学でなくてもいい、作文でいいではないか。書かずにはいられないから。
 こうして神様は《あかし文章》をプレゼントしてくださった。 
    (1)ヘブル一二章11節、(2)イザヤ三五章2節

坂戸ガス会社の封筒         村上トシ子
                 
 六年前の二〇〇二年十二月のある日の午後六時頃と思う。我が家の呼び鈴が鳴った。宅配便と思ったが、まてよ、もしかしたら怪しい人かも、暮も押し迫っていることだしと警戒し、「どなたですか?」と問いかける。すると「H子です。」の高く透き通った聞き慣れた声、ほっとしてドアを開ける。
 実はH子姉とはさっき会ったばかり。心もち深刻そうな面持ちに「どうしたの?」と訝る私の手にさっと渡してくれたのは坂戸ガス会社の封の切った長方形の封筒である。少し膨らみがある。「何?」とますます訝る私に「今、私にできるのはこれだけよ。家にある有り金全部、返さなくとも良いの、もし後で余裕が出来たら神様の為に使って。」と言いそそくさと帰って行った。
 封筒の中には何と十万円近くものお金が入っているではないか。返そうかとも迷ったが彼女の心を思い感謝して頂くことにした。
 我が家に辛く忌まわしい事件が起きてから半月ほどの後のことであった。
 忘れもしない二〇〇二年十一月午後七時頃招きもしなかった一見紳士風の二人の男の訪問。彼らが金融会社の社員だとは所作ですぐ察しがついた。ズカズカと入り込みテーブルの椅子にドカーンと座ったのである。そして最初に放った言葉が「社長(夫)いる?」である。「まだ帰っていないけど、何があったんですか?」と聞くと「奥さん知らないの?」と語気を強める。本当に知らない強味で「知りませんよ。」ときっぱりと答えた。
 すると男達は呆れたようにテーブルの上に借用書なるものを広げて「社長が第一保証人になっているS社、今日倒産したよ。少し前に弁護士からファックスが入ってね、うちとしては困るのよ、たったの半月前に貸したのにさ、お宅も気の毒だけど保証人だから責任を取ってもらわないとね。」と、くどくどと言い結局車二台と手持ちのお金二万円を没収した。話は前後するが夫は間もなく帰った。それから午前四時半まで居座ることに。その間金融会社の社員も六、七人と増え、スキを見て呼んだ体格のがっちりした警官も何の役にもたたなかった。
 しかしこれがこれから起こる苦難への道の序奏にすぎなかったこと、その後を語るには紙面が余りにも足りず次の機会にと思っている。
 事のいきさつの一部を買い物帰りに彼女にバッタリと会い、ぐちったのだった。その日の夕方である。十万円入り坂戸ガス封筒を持って来てくれたのは。失礼ながら彼女の生活ぶりを知っている私には十万円がいかに大金であるかは容易に察しがつく。
 その彼女とは誰あろう。元寄居教会、現、野上キリスト教会牧師中村準一氏の夫人である「中村日出子姉である。今日ペンクラブに参加して下さり、ほんとうにうれしく思っている。
 「すなわち 主は富んでおられたのに あなたがたのために貧しくなられました。」 (第二コリント七章九節)
                    

書くことは讃美すること         山本千晶

 「感謝することを忘れないでね。」
幼い頃からずっと聞いてきた両親からのメッセージです。
 そしてさらに、感謝することを行動にあらわすことの大切さもあわせて伝え
てくれた両親でした。
 仏教信仰の盛んな富山県出身の両親は私がクリスチャンになった時、大変喜
んでくれました。信仰告白式、バプテスマ式に同席してくれた両親にとっても
私が学び続けてきた「歌うこと」を神さまのために用いていただけることに安
心する思いもあったようです。
これまでも演奏会の時、両親は友人、知人の方をお誘いして駆けつけてくれ
ていました。私は育てて支えてくださった多くの方のおかげを日々感じていました。
 私がバプテスマを授かった翌々年、両親が祖母と共にバプテスマを授かった
ことも自然な流れを感じます。
 
私はクリスチャンになってから、あらためて讃美歌のメッセージを深く知る
ようになる出来事によって、自分自身の弱さも知るようになりました。そして
讃美する時に自分の体験を短くお話させていただく機会が与えられるようにな
りました。
 最近では讃美歌、ゴスペルを通してたくさんの出会いも与えられるようにな
っています。と同時に、神さまの愛をお伝えしたい思いに満たされながらも、
自分の表現能力の力不足、言葉、行動範囲の限界も実感するようになりました。
  
「感謝することは主を讃美すること」との思いを携えてこの度、私は日本クリ
スチャンペンクラブの会員にならせていただきました。これからは私に与えら
れただけの信仰で神さまをあかししていきます。
 小さく弱い私ですが神さまを讃美することを担えることをうれしく思っています。

     「主を讃美するために民は創造された」 詩篇一〇二篇十九節

書くことの喜び            山本披露武
 
 「証し」を書きたいと思うようになったのは、退職をする少し前のことだった。それも、どうせ書くのであれば本にしてもらえるものをということになって、九七年度のクリスチャン新聞「証し文学賞」に挑戦をすることにした。
 頑張った甲斐あって、思わずうなるほどの文章が書けた。知っている聖書の言葉はすべて引用したし、サスペンス風におもしろく書くこともできた。「証し文学」としてはもちろんのこと、「推理小説」としても立派に通用する。よし、これなら入選は間違いない。そう思って投函した。
そこまではよかった。が、その後がいけない。つい調子に乗って、父が通っていた教会の牧師に話をしてしまったのだ。
 「先生、クリスチャン新聞社主催の『証し文学賞』をご存知ですか。ぼくはあれに応募したんです」
 「ほほう、『証し文学賞』にですか…、すごいじゃないですか。入選したら是非読ませてください」
 「もちろんです。一番に送らせていただきます。最優秀賞をいただけるかどうかは別としても、入選することは間違いないと思っていますので…」
よせばよいのに送る約束までしてしまった。
しばらくして一次選考の結果が発表された。が、なぜか私の名前が無いのである。
ああ、どうしょう。これでは先生に本を送ることができない。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
 何度も何度も後悔をし、ため息をついた。しかしいくらため息をついたところで問題が解決されるわけではない。仕方がないので約束した事自体を忘れてしまうことにした。が、困ったことに、忘れかけた頃になると先生から、クリスマスカードや手紙がくるのである。
困り果てた末に、私は再度「証し文学賞」に挑戦することにした。何回でも書き続けておれば、そのうちにきっと入選をするだろう。そして入選すれば、「大変遅くなりました…」という手紙をつけて本を送ればよいのである。うん、それがよい。よし、そうしょうと、決心し、私はまたまた原稿用紙に向うことにした。
 そして九九年に、佳作ではあったがようやく入選をし、先生との約束を果たすことができた。よかったのはそれだけではない。そのことを通して、わたしは書く喜びを知ることができたのだった。
 他にこれといった趣味を持たない私が、今も楽しく過ごすとことができるのは、書く喜びが与えられているからである。思わずうなるほどの文章が書けなくても、今は原稿用紙に向かうことができるということだけで幸せを感じることができるのだ。しかもそれが「証し文」ということであれば尚更である。
 私はこれからも「証し文の学び」を続けていきたい。そう、思っている。