若松賤子の生涯 その1
数年前に一冊にまとめた作文を掲載していきます。
タイトルは『会津若松の火炎・日本初【小公子】の翻訳者 若松賤子の生涯を追って』です。
一言紹介しますと、若松賤子(しずこ)は明治前半の時代に、日本で初めて『小公子』を翻訳した女性です。日本初の女医第一号荻野吟子の生涯『利根川の風』に続くものです。彼女たちは日本のプロテスタント史上では地味な脇役ですが、生涯をかけた偉業とその熱い信仰は決して見逃すことはできません。貧筆ながら、その生涯を追いかけてみました。
★会津若松市宮町の生家跡に建立された文学碑には、『私の生涯は神の恵みを/最後まで心にとどめた/ということより外に/語るなにものもない/若松賤子』と、刻まれています。
★賤子は維新の四年前、一八六四年に会津藩士の子として生まれ、一八九六年に肺結核のためにわずか三二歳の誕生日を前に、三人の子を残して世を去っていきます。
★賤子は戊辰戦争、会津戦争の火炎をくぐり、神の不思議な導きで、横浜に貰われ、日本初の女性宣教師キダーさんの学校に通うようになります。この学校はのちのフェリス女学院です。
★一三歳の時、これも日本初のプロテスタント教会、横浜海岸教会で洗礼を受けています。
*前がたり・あらすじを兼ねて
だれでも一度は読んだり耳にしたことのある児童書『小公子』を、初めて日本語に翻訳したのが若松賤子です。明治二三年、結婚の翌年、二六歳の時のことです。結核という当時は不治と言われた病の中で長女を出産した年でもあります。《初めて》とは大変な偉業ですが、若松賤子の名は『小公子』ほどには知られていません。それがいかにも残念です。明治もまだ前半の時に、外国語を習得して翻訳までするとは並みの事ではありません。しかも女性が、です。明治の代になったとはいえ、まだ封建時代からの男尊女卑の風潮は色濃く、女性が高等教育を受けるのさえ容易ではなかった頃です。
賤子はどのようにして英語を学んだのでしょう。
素朴な疑問を追いかけていくと、小説にも勝る波乱に満ちた賤子の生涯が、いくつかの大事件と歴史の情勢を背景にめまぐるしく繰り広げられていきます。大河ドラマ化されてあまねく世に知られることを願うほどです。
とはいえ、当の賤子は自分の伝記が書かれることさえ禁じたほどに人の賞賛を避けた人です。墓石にも『賤子』とのみ記すように指示しました。
会津若松市宮町の生家跡に建立された文学碑には、『私の生涯は神の恵みを/最後まで心にとどめた/ということより外に/ 語るなにものもない/ 若松賤子』と、刻まれています。「賤」とは神の前の姿勢です。神の御前には賤しい者でしかないとの低き心を表しており、神一辺倒の敬虔な信仰の象徴です。人の前に自己を誇るような行為を厳しく否定する賤子の意志に深く共感しますが、それだからこそ、筆者としてはそんな賤子が愛しくて、世に紹介したいと思うのです。賤子が身を屈めた神の栄光のためにです。この志なら、さしもの賤子も、同じ神の賤の女である筆者の志を許してくれるのではないでしょうか。
賤子は維新の四年前、一八六四年に会津藩士の子として生まれ、一八九六年に肺結核のためにわずか三二歳の誕生日を前にして三人の子を残して世を去っていきます。
会津藩と言えば、最後まで德川幕府に忠誠を尽くしたために、戊辰戦争、会津戦争で激しい戦禍に遭い、維新の怒濤をまともにかぶった悲劇の藩です。賤子の一家も例外ではありませんでした。火の粉を浴びながら山野をさまよった末、やがて横浜に貰われ、日本初の女性宣教師キダーさんの学校に通うようになり、そこで、生の英語に接します。
学校はのちに『フェリス女学院』に発展しますが、第一回の卒業生賤子はそのまま母校の教師になり、女子教育と文学に打ちこみ、まもなく新進の教育者文学者、巌本善治と結婚します。善治は東京麹町に開かれた『明治女学校』の校長として活躍し、女性啓蒙のための『女学雑誌』発行の任も負います。賤子はその雑誌を舞台に、執筆に燃え、前述の『小公子』をはじめ、多くの作品を発表しました。しかし、すでに独身時代から発病していた結核にさらに蝕まれ、結婚してわずか七年、その間に三人の子どもの母となり、四人目を宿しつつ天に帰っていきます。その日は、明治女学校が火災に遭ってほとんど焼失した数日後のことでした。
賤子は、宣教師キダーさんと起居をともにする中で、キリスト教の信仰に導かれ、一三歳の時、これも日本初のプロテスタント教会、横浜海岸教会で洗礼を受けます。以後、生涯にわたってイエス・キリストへの愛と信仰に燃え続けます。信仰は賤子を支える根源であり、活動の中心柱であり、賤子の人格の隅々にまで強い力を及ぼしました。
賤子の信仰の土台は「神を信じた者は聖霊によって新生し、神の子になる」という教えでした。賤子には「神の子」はすなわち「賤の女」であって決して相反したり矛盾してはいないのです。会津戦争の火炎をかい潜った賤子の魂にはイエス・キリストの聖霊の火が清い炎で燃え盛っていたのです。
なお本著では「若松賤子」を通しましたが、これは賤子のペンネームです。本名は「島田嘉志子」、フェリスでは「おかしさん」と呼ばれ、夫善治は人前でも「かしさん」と友達のように呼ぶので、珍しがられたそうです。
若松賤子の生涯 その2
*維新の火炎をくぐって・戊辰戦争の犠牲
八月二三日(太陽暦なら一〇月八日)早暁、
賤子はひんやりした秋の空気を頬に感ずると同時に耳を突き破るような轟音に飛び起きた。
「敵だ!」
祖母が吠えるように叫んだ。
「まだ、お城の鐘が鳴りません」
母は怯えるように言った。そこへ、警鐘がけたたましく鳴り響いた。
祖母は枕元の袋を素早く背に括り付けると賤子の手を固く握った。このところいつでも飛びだせる身支度で寝ている。母は産み月のお腹を覆うように上着を羽織った。
祖父と父は戦場に赴いていて、生死さえわからない。
戸を開ければすでに人の渦であった。
一八六八年戊辰の年、元号で言えば慶応四年、明治に変わる半月前の朝、会津若松は新政府軍の急襲を受けた。先頭を切ったのは土佐の板垣退助が率いる一隊であった。
城に一番近い元家老西郷頼母の留守宅に入ると、邸内には二一人の子女たちが自害していた。
籠城を決めた藩主松平容保は堅く城門を閉ざした。
行き場を失った人々は大波のように西へ西へと押され流されて行った。
賤子はようやく四歳である。何度転んだかわからない。その度に祖母に引っ張り上げられる。祖母の腕は強かった。すぐ後ろにいる母が一歩ごとに賤子の名を呼び続ける。祖母は後ろも見ずに母を励まし「しっかりなされ」と声をかける。
背後から鋭い音を立てて銃弾が耳元をかすめて飛んでいく。火の粉が散ってくる。大砲の轟音と銃声に混じって、悲鳴やうめき声が黒い塊になってぶつかり合っている。地面には怪我人とも死人とも区別のつかない人の体が歩く先々に転がっていた。
ひしめきあう群衆とともに賤子たちは城外へ流れて行った。群れは老人と子女ばかりで
ある。どこをどの位歩いたのだろうか、喉は干からび空腹を抱えて意識さえ朦朧としていた。
母が鋭い叫び声をあげて崩れ伏した。うめき声が続いた。出産が始まったのである。とっさに周囲の人たちが母を抱えて窪地へ連れて行った。
しばらく後、赤ん坊のかん高い泣き声が響き渡った。女の子が生まれたのである。賤子の妹みやであった。みやは、後に賤子亡きあと、残された甥や姪を母代りになって育てた人である。戦乱の地獄絵図は賤子の小さな眼底に鋭く深く刻みこまれ、生涯消えることはなかったのである。その火炎とともに。
若松賤子の生涯 その3
*賤子と会津藩
若松賤子(本名甲子(かし)・嘉志子)は維新前夜の元治元年(一八六四年)三月一日、現在の福島県会津若松市に、会津藩士松川勝次郎正義の長女として生まれた。会津藩は藩祖に徳川家康の孫であり三代将軍家光とは異母弟にあたる保科正之をいただき、その三代目から松平姓を名乗って德川の親藩となった幕府一辺倒の忠藩である。
正之の作ったかの有名な『会津家訓十五箇条』はその第一条に『会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない』とあり、家訓は武士だけでなく婦女子にも行きわたり、武士の子は小さい時から「ならぬことはならぬ」と躾けられて育った。こうした藩の教育の上に会津魂が形成され、最後の藩主松平容保(かたもり)まで脈々と受け継がれた。賤子の父勝次郎はこの会津精神の塊のような人であった。
また会津藩は文武と同時に二三万石の経済力にも秀で、東北の雄藩として幕府にあてにされ、賤子の生まれる二年前、文久二年に、容保は京都守護職に任ぜられた。このとき容保以下藩士千人が京都に赴任していった。幕府の命とはいえ、遠く会津から京都へ、藩士の四分の一が移住したのである。忠藩とはいえ、苦渋の決断であった。賤子の父は姓を島田に変えて、隠密として随行した。賤子も結婚するまで島田嘉志子を名乗った。
京都にあって会津藩は禁門の変では朝敵長州を破ったが、その後鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争では討幕軍から朝敵と目され、ついに都落ちし、容保以下藩士は会津で郷土決戦を迎える。しかし籠城もむなしく鶴ヶ城は落城、その後函館五稜郭の戦いまで徹底抗戦するが、薩長土肥を中心にした新政府軍の前に壊滅するのである。賤子の父勝次郎はこの函館戦にも参加した。城は八月二三日の奇襲から一か月後の九月二二日に降伏し、城明け渡しとなった。
城外に逃れた賤子たちはその後も山野をさまよい続け、十月末にようやく帰還を許された。しかし城下は一面焼け野が原、町の五分の四は焼かれ、わずかに残る建物は占領軍に荒らされあるいは奪われ、賤子たちは住むに家なく、食べるに食なく、どのようにして飢えと寒さをしのいだのか、賤子の記憶にはない。賤子がうっすらと覚えているのは、母の死であった。母は官軍突撃のあの日、逃避行の途上でみやを産んだが、心身への負担は過酷であった。裂かれた心は修復の術がなかった。飢えのために出ない乳に吸いつくみやを抱きしめながら、息絶えたのであった。賤子には、母は目もくらむ炎の中へ吸い込まれるように消えていったとしか思えなかった。その時以来母への思慕は消えることはなかった。賤子はいつも無言のうちに無意識の内に母を恋慕っていた。しかし母の面影は思いだせなかった。
藩主容保以下生き残った藩士たちは全員捕虜となり、城内にいた三千人は猪苗代収容所に、城外の千七百人は若松の北の塩川に、その後は東京と越後高田に預けられた。会津若松には一人の藩士もいなくなり、山野をさまよった年寄りと子女だけが取り残された。
明治三年、旧会津藩士は赦免されたが、会津に住むことはゆるされなかった。本州最北端の、不毛の凍土が続く「斗南(となみ)」へ強制移住させられた。国替えとは名ばかりで実質は流罪同然であった。賤子の父と祖父の行方は杳としてわからず、賤子と赤子のみやを抱えた祖母の三人が、斗南へ行ったのか若松に戻ったのか、後年になっても賤子は語らなかった。
ある日、ほそぼそと暮らす賤子宅を見知らぬ中年の男性が訪れた。町人風で旅姿であった。父勝次郎の言づてを持ってきたと言った。祖母が緊張して迎えた。六歳になった賤子は妹のみやと祖母の後ろに隠れるようにして座った。
「私は大川甚兵衛と申します。横浜で商いをする山城屋の番頭です」
男は祖母にていねいに挨拶をすると深々とお辞儀をした。祖母は身なりこそ粗末であったがもと武家の婦女としての威を示すように、背筋を伸ばして客に対した。
甚兵衛の話はこうであった。賤子の父勝次郎と甚兵衛の主人山城屋和助は戊辰戦争以前、会津藩が京都守護職であったころから親交があった。その中で、勝次郎からもしもの時は家族を頼むと託されたという。それを主人和助から聞かされ、商用で若松に来たので伝えに来た。勝次郎からは賤子を甚兵衛の養女に貰ってほしいと懇願されたという。思いがけない話であった。 祖母はじっと話を聞き、じっと甚兵衛を見つめ、甚兵衛の人となりを見抜いた。自分たちは維新の戦いに敗れ今は乞食同然の身の上である。勝次郎の意志と自分たちの境遇を思うと、将来のある孫のために、目の前に差し出された手を運命の意志と信じて託してみようと、即座に勇断したのであった。
こうして、六歳の賤子は甚兵衛に手を引かれて、遠く横浜の大川家に貰われていった。
その後、妹のみやは親戚の世話になるようになり、祖母は帰還した夫とともに会津の新地斗南へ移住していった。父勝次郎は幕府の榎本武揚の軍に飛び込んで函館戦争に参加したが、生き延びた。が、すぐには賤子のもとに帰らず、後年、横浜で再会するのである。
若松賤子の生涯 その4
*横浜へ・大川家の養女に
祖母の一途の期待にたがわず、大川甚兵衛は神の使いであった。
神は賤子という孤児同然の幼子を荒野のがれきの中から拾い上げてみふところの奥深くに抱き、横浜へ導いた。
横浜。
明治三年の横浜は、東京と改名した江戸よりも一段も二段も開け、いたるところ活気あふれる日本一繁栄した町であった。賤子には見るもの聞くものすべてが初めてのことばかりであり、特に会津では見かけたこともない外国人に目を瞠り、大きな興味を抱いた。背丈が高く美しい服装をした男女が、表情も豊かに楽しそうに話しながら往来する姿にはただただ声もなく驚いた。
しかも彼らは賤子の知らない言葉を話していた。自分たちと同じように、外国人たちも自分たちのことばを使っているのだ。不思議でならなかった。できれば何と言っているのか知りたかった。その言葉を知りたい、できれば自分も使ってみたいと強烈に思った。
賤子は横浜が好きになった。会津に比べると空は明るく、空気は暖かく、海風には匂いがあり、大きな海鳥が大きな羽を広げてゆうゆうと旋回している。賤子は町の雰囲気がすっかり気に入った。特に入り混じるあらゆる音が気にいった。音の中にいると生きている気がした。自分の中から強い力が突き上げてくるような気がした。
賤子の住まうようになった家は外国人居留地のすぐ近くであった。甚兵衛の妻おろくは後妻であり、先妻の女の子もいたが、なさぬ仲の子どもたちを大切に養育した。母と言うよりも下女のように甚兵衛にも子どもたちにも仕えた。そのせいか、賤子はおろくには母としての思いは生まれなかった。母と呼んだことはなかった。甚兵衛も強要しなかった。
幸いに、甚兵衛は新政府に出入りする生糸商山城屋の大番頭である。財力には事欠かなかった。賤子は高価な衣服を着せられ、栄養のある食べ物をふんだんに与えられたが、生来虚弱体質で、すぐに熱を出しお腹を壊した。横浜の水が合わなかったこともあった。また、戊辰戦争以来の数年、食うや食わずの生活が続いたため、体の芯が発育不足だった。
甚兵衛とおろくの心配ぶりはたいへんなもので、着る物、寝る物、食べる物に至るまで賤子がうんざりするほど気を遣った。賤子はしたい放題をしてもゆるされる味を知った。自分の好みに合わないものは着る物でも食べる物でも頑として受け入れなかった。賤子の自我が芽生え勢いよく強くなる年齢でもあった。
まもなく賤子は関内の外国人の住まいに連れて行かれた。甚兵衛は、聞き知った外国人の学校へ入れたのである。甚兵衛は日ごろの様子から、賤子の中に並外れた資質を見たのであろう。教育を思い立った。それも、新しい教育、外国人による教育を思いついたのだ。
――この子は体は弱いが精神が強い。あの目の輝きはなんだろう。こんな光は見たことがない。特に外国人を見るときの目には火が燃えている。会津の炎だろうか。きっととてつもない火に燃え上がるだろう。ありきたりの教育ではなく、いままでの日本人が受けたことのない教育を外国人から直接教えてもらったらいいのではないだろうか。きっと火が燃える。なによりも賤子は大喜びするだろう――
甚兵衛を会津に遣わした神は、今回も賤子を新しい地に連れ出した。神は会津の孤児を見捨てず、見離さなかった。『キダーさんの学校』へ行く日、甚兵衛は賤子に話をした。賤子の考えも聞かねばならない、無理矢理はいけないと思った。甚兵衛は賤子が親の言いなりになる子ではなく、芯があり、自分で考え自分で決める子であることもわかってきた。
「関内に、日本の子どもに勉強を教える学校が出来たが、賤子にはそこに行ってみる気持ちはあるかな」
甚兵衛の思った通り賤子の瞳が光った。
「キダーさんと言って、アメリカから来た女の先生だそうだ」
賤子の顔に花が咲いたような笑みが浮かび、目はさらにキラキラと輝いた。
「わたし、行きたいです。すぐにでも行きたい、連れて行ってください」
甚兵衛は大きく頷いた。思った通りであった。
「今日から行きなさい。学校にはもう話してあるから」
甚兵衛は付き添いのねえやを雇ってくれた。
賤子は飛んで跳ねたいほど興奮した。
心配性のおろくは、外国人の前で恥をかかないようにと新調の着物を着せ、真新しい白足袋に真新しい草履を用意し、着物と共布の巾着を持たせた。学校で使う道具は甚兵衛が前もって調べておいたのか、付き添いのねえやが風呂敷に包んでかかえていた。
若松賤子の生涯 その5
*キダーさんの学校へ
明治四年九月、賤子は七歳であった。
キダー先生は賤子を見ると透きとおる声で短く叫び、白い歯を見せながら賤子の頬を両手で挟み、引き寄せて抱きしめた。言葉の意味は分からなかったが自分を喜んで迎えてくれたのが伝わってきた。キダーの柔らかいふっくらした胸から温かいいのちが体の中に入ってくるようだった。外国の女性に抱かれたと思うと気が遠くなるような気がした。
キダーの黒い瞳が光っていた。髪の色が金髪ではなく、縮れてはいたが自分と同じ黒髪であったのが親しみを増した。顔の色は透きとおるように白かった。賤子も白かったが血色は悪く肌は荒れていた。
学校は女子だけだった。午後の三時間が勉強時間であった。
『キダーさんの学校』は日本で最初の女子教育機関であったとはいえ、「ヘボン施療院」の二階の一室をこの時間だけ借りた仮教室であった。賤子の家からは一〇分ほどの所で、通いやすかった。ヘボン施療院は、アメリカ長老派の医療伝道宣教師ジェームズ・カーティス・ヘボンが開いた。ヘボンは医療と並行して聖書の日本語訳にたずさわり、また初の和英辞典である『和英語林集成』を編纂し、ヘボン式ローマ字を生み出した。明治学院大学を創設したことでも有名である。
ついでながら述べるが、横浜は「祖国の中の異国」と呼ばれ、新しい文明を学び、身を立てようと志す人々が全国から集まってきていた。戊辰戦争に敗れた旧幕臣や佐幕派の家臣や子弟たちも多かったが、つい先ごろまでの利害関係に固執することなくそれぞれ新しい志に向かっていった。
賤子と同郷の井深梶之助はアメリカ宣教師ブラウン博士に英語を学び、のちに明治学院を創立する。旗本出身の植村正久は横浜バンドを結成し、熊本バンド、札幌バンドとともにキリスト教の大きな流れを作り、東京麹町の富士見町教会の牧師になる。伊予松山藩の押川方義は、東北学院、仙台教会を創立、弘前藩士本多庸一は青山学院長になる。彼らは明治の代表的クリスチャンであり信仰の力で江戸時代から続く封建的人間関係や偏見、慣習と戦った。
キダーさんこと、メアリー・エディ・キダーはアメリカ、リフォームド教会外国伝道協会から派遣された日本で最初の女性宣教師である。一八三四年、北アメリカ、バーモント州ウインドハムのウォーズボロで生まれた。早くから「神さまが私を導いておられる」との確信のもとに外国伝道に大きな志を抱いていた。後に日本初の宣教師となるS・Rブラウンの経営する学校で教師として少年たちを教えていたが、ブラウンはキダーの教師としての天分を早くから見抜いた。キダーはブラウンが日本に派遣される時、かねてからの志を実現したかったが、そのときは諸事情で阻まれ、実現しなかった。キダーは神の時を待った。
やがて、新潟英語学校へ日本政府から正式には招聘を受けたブラウン一家とともに明治二年八月二七日横浜に上陸した。キダーは前述の団体の命を受けての来日であった。ブラウンが同協会へ、キダーこそは異教の地の伝道に適した婦人であり、女子教育は日本がキリスト教国の仲間入りをする前にやりとげねばならない、それは今すぐに始めるべきですと推薦状を送っている。こうしてキダーの宿願は実現した。時にキダーは三五歳であった。
ブラウン一家とキダーはまもなく新潟へ出発した。明治二年十月六日である。約五〇人の従者と両刀を差した一〇人の武士に守られ、駅馬車や駕籠に乗り、高崎、安中、長野を経て新潟に入った。ブラウンは英語を教え始めた。日曜日は自宅でバイブルクラスを開いた。キダーはまず参考書を片手に日本語を学び、かたわら日本の少年少女たちに英語を教えた。しかし翌年には政府の方針が変わり、ブラウンは横浜に呼び戻され修文館校長に就任した。キダーはブラウンの紹介により、居留地三九番のヘボンの施療院で、へボン夫人が教えていた生徒たちを引き受けて教え始めたが、日本には女子だけの教育機関がないことに気づき、ゆくゆくは女子だけを教える決意をした。
翌年明治四年秋からは女子生徒だけを教えるようになった。授業は一日三時間、午後一時から四時までで、英語、讃美歌、聖書が主な授業内容であった。若松賤子が導かれたのは、奇しくもこのキダーさんの学校なのであった。賤子は最年少でしかも最初の女子だけの生徒であった。これが後のフェリス女学院のスタートであり、日本における女子教育機関の発祥であった。
キダーは学校の様子を本国へ詳しく書き送っているが、そこにはこんな一節がある。
「少女たちはみな利発で理解が早く、アルファベットの大文字、小文字を覚えるのに、一人は第一日目に全部覚えてしまいました。賛美歌を教えましたが『主われを愛す』を美しく歌います。『牧主わが主よ』、『ささやかなる しずくすら』なども歌えます……」とある。
賎子はキダーさんの学校にいる時だけはこの世とは思えない喜びを感じた。会津の恐ろしさも横浜の家の不自由さも全部忘れてしまうほどであった。聞いたことのない言葉が飛び出すキダーの口元を身じろぎもしないで見つめ、そっと真似てみた。口の格好が日本語とは違う動きをし、口の中の舌の回り方も凝視した。ひそかにまねをした。言葉と同時に両手が縦横に動くのも見逃さなかった。踊りを見ているようであった。言葉と動作が一つになって、強い印象を作っていた。賤子は言葉の意味こそ分からなかったが身振りや顔つきで内容を理解することができた。その英語で、歌を歌うのも楽しかった。そのときは自分と英語が一つになった気がした。
賤子だけでなく生徒たちはみな熱心に学んだ。向学心に燃えていたのだ。往年「ただもう、高等の教育を受けたい一心であった」と述懐する生徒もいた。キダーさんの学校はたちまち評判になり、続々と生徒が集まってきた。翌年の十二月には四十人に膨れ上がった。いつまでもヘボンの施療院を使わせてもらうわけにはいかなかった。
キダーさん学校の評判を聞きつけて神奈川県令大川卓の夫人が入学してきた。お供を連れての学びである。ギダーは県令夫人の入学したことが、女子教育が世に好感を持って受け入れられている証拠だと見て、喜びと誇りを感じた。一方、生徒には賤子など年端もいかない女子がいる。キダーはその生徒たちにこそ日本の未来への希望を夢見、愛と情熱をそそいだことはもちろんである。
県令夫人は手狭な教室を見て、さっそく夫に働きかけた。まもなく野毛山紅葉坂の官舎の一部を借りることができた。そこはこじんまりとした日本家屋の一軒家であった。キダーはたいへん気に入った。学校にとっては願ってもない幸運であった。しかしそこまでは三キロもある。そこで、大江夫妻の配慮によってキダーには人力車が提供された。車夫の費用は政府が払ってくれた。しかし賤子は人力車どころではなく学校にさえ行けなくなった。賤子の家、大川家の財政は思わぬ事件によってひっ迫し、まもなく破綻してしまうのである。
若松賤子の生涯 その6
*大川家没落・東京へ
それは思ってもみない一大事件であった。賤子は再び無情な世の暴風に翻弄されることになった。賤子を引き取って精一杯愛情込めて養育してくれた養父大川甚兵衛に火の粉が降りかかった。振り払えない火の粉であり、焼きつくす炎であった。
甚兵衛の仕える山城屋は維新後陸軍の御用商人として豪商に成り上がった。世にいう政商であろう。ところがあることから大きな借財を抱えることになったが、関係筋の政府の要人や役人から見離され、一切の責任を一人で負うことになった。ついに和助は陸軍教師館の応接間で割腹自殺した。明治五年十一月のことである。和助は他の人に類が及ばないように一切の不利な証書を焼き捨て、自分ひとりが責任を取った。
この事件は陸軍汚職第一号として世間に知れるところとなり講談の種にされ新派で上演されたほどである。そのとき山城屋には番頭手代、つまり社員ともいうべき人が四八四人もいたといわれる。大番頭であった大川甚兵衛は和助を助けるために金策に東奔西走したが、かつては甘いものにたかる蟻のように山城屋を取り巻いていた役人や同業者たちはいち早く去り、だれ一人味方するものはなかった。当然、店は倒産、雇人は路頭に迷うことになった。
甚兵衛の努力はすべては水泡に帰し、彼自身も身が立たず夜逃げのようにして横浜を去らねばならなかった。
甚兵衛は降りかかった火の粉に身を焼かれつつも、賤子にはもの優しかった。事の次第を話して聞かせた。賤子には理解する力があると信じたし、また養父としての責任からも黙っているわけにはいかなかった。だますような真似はしたくなかった。
「賤子、家の様子がおかしいとうすうす感じているだろうが、難しい事情があって、大川家は横浜にいられなくなった。支度が出来次第東京に行くことにした。わかってもらいたい」
甚兵衛は正座した膝の上に両手を置き、頭を垂れた。そばには後妻のおろくと先妻の娘もいた。おろくがしくしくと泣き出した。娘もつられたのか泣きじゃくった。
賤子は泣かなかった。泣くどころではい、大好きな横浜にいられなくなると思うと動悸が激しくなり胸がきりきりと痛んだ。
「学校へはもう行かれないのですか。ミス・キダーには会えないのですか」
賤子にはそれしか頭になかった。キダーさんの学校は賤子のいのちであった。
「当分は、な、すまない、賤子。我慢してくれ」
甚兵衛は目をつむった。賤子の胸は火のように熱くなり、初めて熱い涙が噴き出た。
「世の中の難しいことがなくなったら、きっと、きっとまたキダーさんの学校へ帰してください。お願いします」
「賤子の気持ちは決して忘れない。肝に銘じて覚えておく。早くその日が来るように、神に祈って待っていてほしい」
明治六年早々に、大川一家はわずかな荷物を持って東京は浅草や上野に近い当時の下谷区下谷稲荷町に転居した。荷物一つで知らない土地へ落ちていくのである。賤子は戦火に焼かれる会津の町から逃げた日々を思い出した。このたびは戦火こそなかったが、賤子の心のうちには憤懣の黒煙が炎を見え隠れさせながら充満していた。
――どうしてまたよその町へ逃げていかなければならないのだろう。ミス・キダーや友だちに会いたい。勉強したい、英語で賛美歌を歌いたい――
東京で、大川一家四人がどのように暮らしたか、およその想像がつくというものだ。賤子には、学校へ行けないことへのストレスが大きかった。賤子の耳にはキダーさんの英語が鳴り響いていた。覚えたわずかな英語が口をついて出た。学校へ通ったのはほんの一年ほどであったが、英語は賤子の内部に深く浸透していた。聞き取る力だけでなく、話すことも、書くことも驚くほど上達していた。
東京の暮らしの中で、周辺から聞こえてくるのは横浜とはちがう東京の言葉であった。会津の言葉も横浜の言葉も賤子は好きであったが、東京の言葉には特に惹かれるものがあった。賤子の言語体系は様々な言語を基礎にしてふくらみ強くなっていった。賤子はこうして東京の下町で三年ほど過ごしている 賤子の実父松川勝次郎の消息は正確にはだれにもわかっていない。そもそも勝次郎は会津藩のれっきとした藩士ではあるが、藩から指令された仕事は隠密であったために本名を使わず島田とした。賤子も結婚まで島田嘉志子と名乗っている。
勝次郎は会津の城が落ちると、榎本武揚率いる幕府軍に加わり箱舘(函館)戦争で戦った。多くの会津藩士も加わっている。しかし戦いは官軍の勝利に終わった。その後、会津藩が国替えされた青森県の下北半島、斗南(となみ)へ渡った。そこからさらに海を越えて北海道札幌区の後志半島に入った。ここは斗南藩(旧会津藩)に加増された土地であった。斗南から二千人が移住した。斗南では生活が成り立たなかったからである。
賤子が大川甚兵衛の養女になるについては、勝次郎のたっての願いによるものである。勝次郎はどこにいてもあらゆる手立てを講じて家族の消息を追いかけていた。勝次郎は非情の人ではなく、藩命に従うことを第一としながらも一家離散を憂いていた。世情が落ち着き一家を養う力ができたときは、賤子、みやの二人の娘たちを引き取っていっしょに暮らしたいと心底から願っていた。勝次郎の娘たちへの情は熱かった。
山城屋の事件は日本中に知れるほどの一大ニュースであったから当然勝次郎の耳にも入ってきた。
「それで、賤子は、賤子はどうした、どうしているだろう」
大川家が東京の下谷にいることを突き止めると矢も楯もたまらず、決して少額ではない旅費を工面して、夜を日に継いで駆け付けた。顧みれば、娘とは維新前夜、藩主容保に随行して京都に発って以来別れたきりである。賤子も父の面影は母と同じようにほとんどない。しかし亡き母とともに忘れられるものではなくひそかに恋い続けた。母には会えなくても父には会えるはずだと思うと恋しさは募るばかりだった。毎日顔を合わせ、過分なほどの愛情を受けていても、悲しいかな甚兵衛は養父でしかなかった。
その勝次郎が家の戸を開ける前から、賤子は察知した。賤子の天的な鋭い勘か、肉親の血の業だろうか、
「父上が来られる、たった今、父上が来られた」賤子の心は躍りに躍った。父の匂い、父の声、肌の温かさに賤子は分身を感じた。親鳥の懐に抱かれるヒナのように賤子は勝次郎から離れなかった。
「賤子、大きくなったなあ。一日も忘れたことはないぞ。甚兵衛殿とおろくさんのおかげだ。ご恩は決して忘れてはならない」 勝次郎は畳に額をつけて二人に礼をした。そこには落ちぶれてはいても礼節を重んじる武士の魂が凛々と光っていた。
「賤子が願っていることは何か、したいことは何か、望みがあるか、聞かせてもらいたい」
唐突な問いであったが賤子はきっと顔をあげ、勝次郎を見つめた。
「私の一番の願いはキダーさんの学校に戻ることです。学校へ行きたいのです、勉強したいのです、英語を学びたいのです。キダーさんの学校で」
これには勝次郎だけでなく、むしろ甚兵衛がいちばん驚いた。賤子の気持ちを知らないわけではなったが、東京に来てからは一度も聞いたことがなかった。子どものことだから日に日にその思いは薄れ、忘れているだろうと思っていた。甚兵衛は、この子のうちには火が燃えている、ただの願いではない、なにか大きな炎が燃えていると感じた。勝次郎も甚兵衛も深くうなずいた。
若松賤子の生涯 その7
*再び横浜へ・「寄宿学校」生活
明治八年、一一歳の賤子は約三年の月日を経て横浜へ帰って行った。大川家全員ではない。賤子一人だった。賤子は家族と別れて、懐かしいキダーさんの学校へ、そうではなく、校舎も場所も名前も新しくなった寄宿制の『フェリス・セミナリー』へ再入学した。賤子の記憶にあるキダーさんの学校はヘボン施療院の二階の部屋であった。野毛山に移ってからはほとんど通っていない。学校移転と同時に賤子も東京へ転居したからである。
賤子が横浜を去ってからもキダーさんの学校は生徒が増え続けた。キダーはいよいよ自分の使命が女子教育にあることを確信し、本国の伝道協会に念願の寄宿学校の建設を訴えた。やがて資金が調達され、日本政府から借りた千坪余りの土地に総工費五千ドルの校舎と寄宿学校が出来上がった。新しい学校は港を見下ろす横浜の山手にあった。キダーが来日して七年目に実現したのである。開校式は明治八年六月一日に行われた。
賤子が東京で満たされない思いで過ごした日々の間に、横浜では海を隔てたアメリカからの祈りと援助によって想像もできない立派な学校が作られていたのだ。まるで賤子の復帰を待っていたかのようだった。横浜を離れる時は死の地へいくような暗い気持ちだったが、今や夢の国へ迎えられた思いだった。賤子の心の火は再び高く燃え上がった 最初の生徒は一四人であった。全員がそれまでのキダーさんの学校の生徒であった。
もう一つ驚いたことがあった。キダー先生が結婚したことであった。
先生の胸に飛び込んでいこうとしたとき、そばで声がして、先生が振り向いた。
「ミセス・ミラー!」
賤子ははっとした。聞き違いをしたのかと、一瞬ひるんだ。
「驚きましたか、わたし、結婚して、ミセス・ミラーになりました。賤子、ようこそ」
キダー先生は初めて会った時と同じようににこやかに語りかけ、両手を大きく広げ身をかがめて賤子を抱きよせた。横浜を去ったその時から一日も忘れたことのないそのままのキダー先生だった。伝わってくる柔らかな胸の温かさも変わっていなかった。賤子は顔をうずめると肩を震わせて泣いた。先生はこの三年間、賤子がどんな境遇にいたか知るはずもなかったであろう。賤子もこうしているとブランクの日々が消えて昨日の続きのように思えた。東京が急に小さくかすんでいった。
「賤子、私の夫、ミスター・ミラーです」
先生のかたわらにそびえるように大きな男性が立った。賤子は思わずうつむいて後ずさりした。動悸が激しく打ち、顔がほてった。ミスターはちょっと困ったように肩をすくめて両手を腰のあたりで広げた。賤子は気を取り直して、右手を差し出した。言葉は出なかった。ミスターは待ちかねたように賤子の手を握った。大きくて厚くてちょっと硬くて温かい手であった。笑顔がこぼれていた。
賤子は、結婚とか私の夫というような言葉は生まれてこの方聞いたことがなかったし、二人が寄り添ってお互いに笑みを交わすのにいたっては卒倒しそうに驚いた。そして呆然とみとれた。賤子の目にはこの世のものとは思えないほど美しく映った。大人と同じように何の隔てもなく結婚を告げ配偶者を紹介されたことで、自分が急に大人になったような心地よさと誇りを感じた。同時に背中に一本、新しい芯が入ったような爽快な思いがした。
ほかにも驚くことがあった。キダー先生がミスター・ミラーと時々強い口調で言い合っているのだ。喧嘩をしているのかとドキドキする。内容が分からないせいもあるが、二人は真剣に議論しているのであった。そんな夫婦の姿も賤子は見たことがなかった。キダーは堂々と自分の意見を言い、ミスターも言い、しばらくすると二人は手を取り合って笑顔になるのだ。賤子には実に不思議な光景であった。アメリカでは夫と妻が上下の関係ではなく、横並びなのだとわかり、深く納得できるのであった。
賤子は、勉強そのものはもちろんであるが、ミラー先生夫妻や他の先生たちの考え方や習慣や人間関係に深く心を動かされた。その一つ一つが賤子の人格形成に大きな影響を与えていった。学校は寄宿制であったから生徒も教師も同じ場所で寝食をはじめ生活のすべてをともにする。まるで一つの大家族のようであった。キダーは家族のような学校をモットーとしていたから、寄宿舎の雰囲気にはそれが色濃く表れていた。今や賤子にとって、キダー先生こそ、優しい愛に満ちた頼もしい母であった。キダーのそばにいることがうれしくてならなかった。賤子は会津を出て以来初めて、深い心の安らぎを得た。
横浜の山手の高台に建てられた『フェリス・セミナリー』の校名は、キダーの資金要請に応えてくれたアメリカン・ダッチ・リフォームド・ミッションの総主事アイザック・フェリスの名をとった。キダーが志を立ててから七年が過ぎていた。それまではキダーは「私の学校」と呼び、人々も「キダーさんの学校」と呼んで親しんだ。その後も単に「寄宿学校」と言われ、日本で初めての女子教育機関、それも珍しい寄宿制にちなんで、固有名詞のようになり、人々に慣れ親しまれ、その名を広めていった。
新しい学校の外観は洋風であった。教室は外国式の椅子と机を置いた。授業は八時に始まり午前中は英語の授業、午後は和文学と漢学を勉強した。寄宿舎は畳敷きの部屋に数名が入った。生徒たちは和服姿であり、食事も基本的には和食であった。
夏休み前には生徒数は一八人になり年末には四〇人収容が満員になった。ほかに通学生が一〇人いた。キダーは相変わらず「我が大家族」と呼んで家族主義を貫いた。クリスマス前には予告なしの公開試験があった。生徒たちはみな向学心に燃え、頭脳明晰であった。賤子は三年ほどのブランクをものともせず、半年後には英語で巧みに話せるようになった。キダーは賤子に特別に目をかけ、先生ご自慢の生徒になっていった。
若松賤子の生涯 その8
*賤子、洗礼を受ける
キダーは、初期の学校の時も、寄宿学校になってからも一貫して生徒たちに英語を使ってキリスト教を教え続けた。生活もキリスト教の実践の場であった。キダーは単なる教育者ではなかった。もともとキリスト教の宣教師である。第一の使命はキリストの福音を伝え、クリスチャンを生み出すことであった。結婚したミラー氏はもちろん宣教師である。
キダーは日曜日には教会で日曜学校を担当し、そこへは最初から生徒たちも参加した。賤子ももちろん喜んで日曜学校に通い、しばしば手伝いもした。
明治六年(一八七三年)明治政府は徳川幕府以来のままであったキリスト教禁止の高札を撤廃した。ここにキリスト教は二六〇余年を経て、晴れて禁を解かれたのである。信仰の自由が公に認められたのである。もっとも禁教時代から、多くの宣教師たちは危険を冒して來日していたが、横浜へはアメリカからプロテスタントの宣教師たちが来ていた。
彼らはいよいよ大手を振って伝道活動できるようになったのである。もちろんまだ民衆の間の偏見はひどく、「耶蘇」といって避けられ嫌われてはいたが、公に捕縛されることはなくなった。
明治八年には横浜海岸教会が建てられた。これこそ日本初のプロテスタント教会である。フェリスからは五名の女子たちが堂々と洗礼を受けた。日本の女性クリスチャン第一号奥野ひさは、賤子と同じように戊辰戦争の犠牲者であった。父の奥野昌綱は上野彰義隊に属し、戦いに敗れた後、新政府軍に追われた。やがて横浜でヘボン博士の日本語教師になり施療院の二階に住んだ。その一室がキダーさんの学校として使われ、賤子が入学した場所である。奥野はその後、ジェームス・バラの説教に感動して、ブラウン博士から洗礼を受け日本初の牧師になった。
賤子の周辺は当然であるがキリスト教一色であった。いつも賛美歌が聞こえ、また歌い、聖書が読まれ、教えが説かれ、祈りがあった。賤子はキリスト教づくめの生活に違和感はなかった。むしろ喜んでその雰囲気に浸り、ごく自然に福音を受け入れた。賛美歌を歌うと心が弾んだ。聖書の物語に胸が躍った。祈りは平安と力を与えてくれた。何よりもキダーの実践愛を通して、生きて働く神の存在が分かり、イエス・キリストの贖いの愛に心満たされた。
明治一〇年、一三歳の賤子は横浜海岸教会でキダ―の夫、ミラー牧師から洗礼を受けた。フェリスの生徒数名といっしょであったが、そのうちの一人はのちに植村正久夫人になる山内季野(すえの)である。二人は間もなく日曜学校で熱心に奉仕するようになった。
「スエコとカシは熱心な主の働き手です。彼女たちは日曜学校を作りました」
キダーは本国への手紙に二人のことを書いている。カシとは当時の賤子の通称大川甲子(かし)のことである。のちに戸籍上の正式名「島田嘉志子」になる。
洗礼を受けたことは、賤子の内面を強くし、自分というものに眼覚めさせ、自信をつけさせる大きな力になった。心よりさらに奥にあるいのちの根源である魂が輝きだした。思春期に入った賤子には最適なタイミングであった。
賤子が信仰から直接に大きな確信を得たのは「新生」の教えであった。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」聖霊によって生まれた者は「今や神の子である」。賤子は、今までの古い自分は死んで、今は、ひとえに恩寵による「神の子」にされたことを誇らしく思い喜びにあふれ浸った。絶えず神を求め、神との交わりを渇仰した。
信仰の確信は賤子の人格を変えていった。人前で、物おじせず自分の意見が言えるようになった。英語で話すことが楽しくてならなかった。恥ずかしさが消えると発音も上達した。瞳に光が増して、顔全体が明るくなった。生来、色白の上に血色が悪く生気がなかったが別人のように美しくなった。賤子は会津から横浜の甚兵衛夫婦に貰われ慈しんで育てられたにもかかわらずいつもどこかで自分は孤児だという物悲しい卑屈な思いの中にくすぶっていた。そのぶん、養父母にもなつかず、気難しく意固地で手にあまる子であった。
「おかしさん、このごろとてもげんきになったわね」
「美しくもおなりだわ。お人が変わったみたい」
「先生の一番のお気に入りだし、おかしさんはきっと偉い人になるわ」
先輩も後輩も賤子を注目し、特別な才能があることを認めていた。
若松賤子の生涯 その9
*キダーとの別れ
洗礼を受けた賤子はキリスト者としての自覚が確立するにつれ、勉学にも生活にもいっそう力が入り、毎日が充実して心躍るようであった。賤子にとっては「寄宿学校」こそが家庭であり、世間であり、世界だった。キダー先生がいれば十分だった。神への信仰があれば怖いものなしであった。賤子は急速に成長し強くなっていった。
ある日、キダーが賤子を呼んだ。
「わたし、日本に来てから一〇年になります」
キダーの瞳に愁いを見て、賤子は初めてはっとした。思いなしか声にも生気がない。
「賤子、わたし、たいへん疲れています……」
賤子は耳を疑った。キダー先生が疲れるなんて、そんなことがあろうか。キダーはいつもいつも賤子の目には何でもできるスーパーレディであり、やさしくたくましい母であったからだ。賤子はキダーの一〇年を多少のブランクがあったものの寝食をともにしてきた。うそ偽りなく大家族の母であった。
「ミセス・ミラー、お病気ですか」
賤子は言葉が見つからないままに問いかけた。
「病気……そうね、心が疲れたかしら」
心が疲れる……って、賤子にはわからなかった。ミスター・ミラーがおられるし、天の神がおられるではないか。
「賤子、わたしたち、アメリカへ帰ります」
賤子は全身から血が引いていくのを感じた。とたんにぼうぼうと涙が流れた。
「あなたがいちばん驚くだろうと思って、先に言いました」
そういうとキダーは賤子の両手を固く握った。
「きっと、また帰ってきます。わたしは日本を愛しています。学校を愛しています。賤子を愛しています。また会えます。会いましょう」
「先生のいない学校は、学校ではありません。私は生きていけません」
賤子はそう訴えるのが精いっぱいであった。
「いいえ、あなたは強くなりました。神さまが守っていてくださいます。神さまは私よりもずっと大きく深い愛であなたを愛しています。神さまにすがりなさい」
明治一二年、ミラー夫妻は帰国した。
賤子にとってキダーとの別離の衝撃は大きかった。賤子にはアメリカはこの世の国とは思えないほど遠く、キダーと再び会える実感はなく、残るのは喪失感だけだった。体中が大きな空洞になってしまった。心も頭も風の通り抜ける空っぽの器だった。そこには悲しみだけが漂っていた。
今までに失ったものが次々に思い出された。会津の家、死んだ母、消息も分からない妹のみや、便りのない父、不義理をしている養父母までが現れては消え消えては現れた。みんな遠い人になってしまった。その遠い人々の中にミラー夫妻もいた。しかし、キダーを忘れることはできるものではなかった。キダーこそ、生みの親にも勝るまことの親、母であった。賤子は来る日も来る日も泣き続けた。
賤子の魂の奥底には消えない炎が残っていた。恵み深い神が誕生と同時に与えた力であったろうか。炎は悲しみの涙にも苦悩のため息にも消えなかった。炎は自戒の思いと神への信仰心に作用し始めた。キダーを慕うあまり自分自身を見失っていたのだ。
やがて賤子はキダーに頼っていた幼さから、神にのみ信頼していくべきことを悟り始めた。賤子の内面は自己確立へと向かって大きく翼を広げていった。
若松賤子の生涯 その10
*自立への道・フェリス卒業
二年後、ミラー夫妻は再び日本に入った。だがフェリスへ戻ることはなかった。夫妻は直接に伝道に専念することになった。それを知っても賤子はもう嘆かなかった。不在の二年間は賤子をまことに大きく成長させた。賤子は物事を客観的総合的に判断できるようになった。自分中心の考え方ではなく、神の御心を受け入れるゆとりができた。また自制力も強くなった。
キダーは東京築地を拠点にして活動を始めた。月刊誌「よろこびのおとずれ」(Glad Tidings)を発行し集会を開き、フェリスの教え子たちのために月一回で例会を開いた。賤子が喜び勇んで参加したことは言うまでない。それだけでは収まらず、夏休みになるとキダーのもとに飛んで行った。
キダーは我が娘のように賤子を迎えた。自然に、賤子はキダーの働きを積極的に手伝った。毎日のように開かれる集会や学び会の準備、特に雑誌編集の仕事に興味を抱いた。これらはのちのち賤子自身の働きに大いに役立った。多忙な日々に汗を流しながら、賤子はずっとここにいたいと思った。キダーのそばにいるだけで心が安らぐのだった 横浜へ戻る日が近づいたある夜、賤子は日ごろから迷い悩み解決の糸口さえ見えない一身上の課題をキダーに打ち明けた。
「先生、私はもう六年も学校にいます。私のような人は一人もいません。自分だけ取り残されているようで、辛いのです。いっそやめて、ほかの道へ進んだほうがいいのではないかと思うのです」
事実、フェリスには修学期限などの規則がなかった。生徒は好きな時に入学して、都合で去っていった。ほとんどが結婚でやめていった。賤子には結婚の話は皆無であった。生徒たちはたいてい親元から呼び戻されるのであったが、賤子には身寄りがいない。孤児同然の身であった。自分の将来は自分で決めなければならなかった。
「学校をやめてはいけません。絶対にやめてはいけません」
キダーは鋭い声できっぱりと言い放った。賤子は驚いてキダーを見つめた。
「神さまはあなたの道を決めておられます。それがはっきりと示されるまで、学校にとどまって祈り続けなさい。私も祈ります」
時に一七歳であった。キダーの厳命に励まされたものの賤子は半分泣きながら重い心で横浜に戻っていった。せめて学校にキダーがいてくれたらこんなに悩むことはないのにと叶わぬことを思った。学校にはもう自分の居場所を見つけられないのだ。内なる炎が消えかかっていた。
賤子の深い苦悩と祈り、キダーの愛の祈りを神は聞かれたのであろうか、賤子の炎が再び勢いよく燃え上がる出来事が起こった。
校長が変わった。明治一四年十二月、二代目の校長にブース師が就任した。キダーがフェリスの生みの親とすれば、ブースは育ての親ともいわれる。ブースは大家族の家庭のままの学校を本来の学び舎に改革していった。外側も内側もすなわちハード面もソフト面も改善、改革した。まず外観を修理整備した。屋根も教室も吹き替え塗り替えた。
学則が明文化され、予科二年、本科四年、高等科二年が定められた。ブース校長のきびきびした活動に校内の空気は一変した。活気がみなぎり生徒たちの表情も生き生きとしてきた。その影響を一番強く受けたのは賤子であった。賤子は卒業の免許を主張した。即刻受け入れられ、翌年一五年六月二九日、フェリスは最初の卒業式を挙行したのである。キダーさんの学校が関内のヘボン施療院でスタートしてから一一年が経っていた。
卒業生は賤子ただ一人であった。開校当時から一人居続けたのだ。キダーがアメリカへ帰国してからは学びの意義さえ見えない迷路をさまよったが、賤子の忍耐は報いられ、晴れの日を迎えることになった。
第一回高等科卒業生として初めての卒業証書を授与された賤子は、大勢の生徒、先生、来賓に囲まれて賞賛の的になった。賤子は居並ぶ人々の前で英語で演説した。フェリスの学力はいかにと注目する世間の重圧を一身に背負ったが、賤子は堂々と一一年間の実力を発揮した。
後年、賤子は自嘲めいて「開校当初からのただ一人の残存者」というが、その栄誉は計り知れず大きい。賤子の名は今に至るまで「フェリスの第一期生」として輝いている。神は報いる方である。
寂しいことに、賤子の晴れ姿を見る身内が一人もいないことだった。胸に抱く卒業証書を見て喜んでくれるはずの母も、流ちょうな英語を聞いてくれる父もいないのだ。
しかし幸いなことがあった。フェリスの教師として採用され、卒業後も学校に残り、和文教師として新しい立場で働くことができるのだ。賤子の内にまたもうひとつ希望の炎が燃えだしたことは言うまでもない。賤子はこれまで積み重ねてきた学びとともにフェリスの理念や女子教育をどのように実践していこうかと、早くも構想に没頭した。とはいえ、九月の新学期までの長い夏休みには学校は無人になるのだった。生徒たちは帰省し、教師は避暑に出かけた。賤子は毎年のことながら悲哀を感ずる時であった。
賤子の境遇に深い同情を寄せたのだろうか、校長のブース夫妻が家族の函館旅行に誘ってくれた。思いがけない誘いに賤子の心は躍った。神からのプレゼントに思えた。賤子は神の慈悲をひしと感じながら喜んで同行した。
旅は思いがけない展開になった。
船旅であった。二日目の午後、濃霧が立ち込めていた。賤子を乗せた九重丸は一路北上していたが突然岩にぶつかって座礁してしまった。転覆こそ免れたが、乗客は荒海に放り出された。賤子は溺死寸前のところを救助され、幸い校長家族も命拾いした。避難した場所は福島県岩城の突端、薄磯という浜であった。福島といえば賤子のふるさと、忘れじの会津若松がつい百キロほど北西にあるのだ。事故とはいえ、生地近くにいると思うと、じっとしていられないような胸の高鳴りを覚え、震える思いがした。戦火を潜った幼い日が突然目の前に現れてくる気がした。賤子は時を忘れて会津の方を見つめ続けた。
数日後、代わりの船が手配されて、函館に着いた。
函館には、賤子は父勝次郎の面影を追いかけた。会津藩士は、榎本武揚の軍に飛び込み、五稜郭に立てこもって半年間戦ったのであった。そこに父勝次郎がいたことは確かである。父は捕虜になった。賤子は町中を巡るとき、どこかに牢の跡がないかとひそかに目を走らせた。その後捕虜は釈放された。後に勝次郎は再び北海道に渡るのである。そこは会津藩に加えられた地域である。会津藩は戊辰戦争で敗れた後、青森県下北半島など斗南と呼ばれた数か所へ国替えとなったが、その後北海道札幌県後志国も加えられたので生活苦のために斗南から二千人もが移住した。勝次郎はその中にいたのだ。
ともあれ、フェリスを卒業していよいよ教師として立つ人生の大きな区切りの年に、思ってもみなかった大きな旅が与えられたことは賤子の心境を新しくするのに最適であった。旅のさなかで難船の憂き目にあったが、旅程にはない生家近くの福島で数日を過ごせたこと、函館では会津藩と父の生きざまに濃密に出会えたことも賤子の前進する力を強めた。過去に蓋をして葬るのではなく、過去を確認し受け入れてなお踏み越えていく心の整理ができたというべきか。神は時宜にかなったことをなさるお方なのだと深く実感した。
若松賤子の生涯 その11
*家族との再会・母校フェリスの教師として活躍
――今日から私は生徒ではなく、教師なのだ――
七歳から一八歳の現在まで、多少の曲折はあったものの一つ場所にいるのだから昨日と今日の境目もつけ難い。しかし賤子は昨日と今日ではま反対の立場になった。超えることのできない太い境界線である。与えられた使命を推進するには大きな自覚と覚悟が必要であった。心を切り替えなければならなかった。昨日までともに机を並べた学友たちは今日からは自分の生徒なのだ。
賤子は並々ならぬ緊張の中にあったが、心は穏やかであった。神がともにいて支えてくださる、あらゆる必要に応えてくださると信じ切っていた。信仰は賤子の言動にいいしれぬ余裕をもたらした。
最初の日の一時間目から、賤子は何年も前からずっと教師をしてきたような思いに満たされた。生徒たちも何一つ違和感なく「先生」として受け入れてくれた。もっとも、今までも賤子は頼もしいリーダー「おかしさん」であった。在校年数だけでなく賤子の内に燃え続ける神の炎は、外側にも現れ出て冒しがたい風格を与えていた。賤子の教師活動は順調に進んでいった。世間にもようやく女子教育が認められるようになり、フェリスの名声は広まっていった。
明治一六年秋、フェリスは増改築工事が完成して寄宿舎の収容能力も九〇人になり、倍以上の規模になった。落成式が計画された。何を思ったかブース校長はすべての準備を日本人教師でするようにと命じた。真っ先に「おかしさん」こと賤子先生は奮い立ったので全員一致団結できた。
翌一七年四月、賤子は二五〇人からの来賓を前に英語で挨拶し演説した。内容は女子教育と女性の社会的地位の向上についてであった。賤子は言葉鋭く熱く語った。すなわち、日本は文明の外形は模倣済みだが、文明の精神は取り入れもせず見習ってもいない、女性はあまりにも長い間不当な扱いを受け権利を否定されてきたと論じた。こうした女性の権利を主張するのを聞くのは初めての人たちばかりだった。
以後、賤子は、前近代的な悪習慣を除く働きに大きな意義を見出した。賤子は自分自身も新しくなるために、本名の甲子(かし)を嘉志子と改名した。ちょうど時を合わせるように父勝次郎は上京の準備をしていた。
一八年七月三〇日付けで賤子は大川家から籍を抜いて晴れて実家に復籍した。勝次郎はすでに「えい」と再婚しており、会津の実家を整理して、九歳になる一(はじめ)と、賤子の実妹のみやの一家四人が明治二〇年一一月一九日の日付で札幌県後志国字島静色内町八番地から麻布区霞町八番地に転入届を出した。
実に二〇年ぶりに、戊辰戦争以来別れ別れになっていた家族が一つ屋根の下に住まうようになったのである。賤子は六歳の時に大川家の養女になって会津を離れ、その後横浜のキダーさん学校、その後の寄宿学校を仮の家として、それなりに大切にされ愛を受けて成長してきたのであるが、肉親を慕い求める渇きに人知れず悶えてきた。
特に父勝次郎には、生きているはずなのに確かな消息を知らせてくれない恨みや心配を抱いてきた。賤子の心の中では父の思いは絶えず揺れに揺れていた。
その父が、会津の家も大川家との戸籍もすべて整理して、みやとともに一家を構えてくれたのだ。新しい母と義弟がいたが、賤子はもうそうしたことにこだわることはなかった。
義母の「えい」は教養はあまりなかったが素朴で実直な女性であった。それだけに夫には忠実、なさぬ仲の賤子、みやには一歩も二歩も下がって賢くふるまってくれた。賤子には義弟「一」(はじめ)はかわいい弟だった。
一家の生活を支えるのは賤子であった。もう勝次郎は定職にはつかなかった。激動の維新の中で、悲劇の部分を一身に引き受けた会津藩士として勝次郎の生涯は終わったも同然であった。勝次郎にとってはようやく落ち着いて家族いっしょに生活できることが唯一の慰めであり、家庭こそ安住の地であった。戦火の中で失った多くの肉親たち、わけても妻のことは忘れることはなかったが、すべては今さらどうにもならない過去だった。
しかし、目の前には血を分けた賤子がいる、みやがいる。一がいる、それで十分だった。わけても賤子の活躍ぶりにはただただ驚くばかりであった。出世ぶりというべきか。外国語を自由に話し、外国人と当たり前に付き合い、有名なフェリスを出て、母校で教鞭をとり、報酬を得て、家族を養っているのだ。勝次郎はしみじみと賤子の言う神の力をありがたく思った。自分も神の恩恵にあずかっていると信じざるを得なかった。
賤子は妹のみやを給費生としてフェリスに入学させた。みやは明治二七年に本科を卒業している。
賤子はいよいよ張りを持って教師職を務めた。正課のほかに文学会を作った。今で言えば、教師主導ではあったが部活動であろうか。『時習会』と命名し、毎月会報を発行した。
会では英文、和文を創作、朗読し、また暗唱した。時に外より客を招き、文章朗読、英詩暗唱、演説、音楽、会話など、多彩なプログラムを企画し、いつも盛会であった。
賤子は女子教育と文学を自分の活動の二本柱とした。
若松賤子の生涯 その12
*縁談に迷う
結婚について考えないことはなかった。賤子は独身主義ではない。明治の半ば、二三歳といえばむしろ婚期を過ぎたと思われた時代である。当時の女性には早婚と女中奉公が習慣であり、大方の女性たちはその道を進んだ。それはその後も長く続いた。
フェリスに学ぶ女性たちでさえ例外ではなかった。女中にこそ就かなかったが、多くの生徒たちが入学してもまもなく結婚のために退学していった。賤子はどれほどの結婚話を見聞きしてきたことか。しかし自分を外に置いたことはなかった。周囲の結婚風景の中で賤子の結婚観は養われていったと言っていい。
いつか自分もすばらしい伴侶に巡り合い、理想的な家庭を築きたいと願わないことはなかった。ことに女子教育に深くかかわる中で、女性の結婚は教育論の中心であった。賤子なりの男性像、家庭像が描かれていった。しかしあくまでも理論であり空想であり夢の域を出なかった。
ある時から、賤子の結婚が具体的な姿を取ってきた。一人の男性がその対象としてすぐ真近に現れたのだ。 ミラー夫人が折り紙付きで薦める男性であった。「賤子、わたしはミスター・リョウ・セラダこそあなたのハズバンドとしてもっともふさわしい方だと信じますよ」
ミラー夫人は単刀直入に迫ってくる。
「はい、ありがとうございます。いつも私のことをお心にかけ、お祈りとアドヴァイスをいただき深く感謝しています。先生からそのように保証されると、安心してお付き合いができます」
賤子にとってミラー夫人ことキダー先生はいつになっても変わらない大切な恩師であり優しい母である。ミラー夫人の気の入れようはたいへんなものだった。
世良田亮氏、三〇歳。
氏は妹春子が生徒だったことから機会あるごとにたびたび学校にやってきた。信州上田の出身で海軍士官、大使館づきで実際に渡航の経験があり海外の見聞も広く、礼儀正しい申し分のない紳士であった。賤子の男性像にもかなった人で、好意を寄せることができた。周囲の好奇の目は並々ならぬものがあったが、みな温かく見守り二人の結婚を待ち望んでいた。世良田氏はキリスト者として立派な信仰を持ち、のちに日本基督教会伝道局長、東京青年会会長としても活躍し、植村正久は「武人たる神学者」として賛辞を惜しまなかった。
しかしである。他人がどんなに良い評価をしても、自分の結婚相手として考えるとなると、まったく違った見方があるのではないだろうか。その人の風貌や人格、生活力や社会的立場に非の打ちどころがなくても、また自分に対する愛情や誠実がどんなにあふれていても、自分自身が納得できなかったら、どうしようもないではないか。理性では受け入れられても心において、情において、すべてを超えてなお燃えるもの、内なる炎こそ第一になるのではないか。賤子はそう考えるのだ。一番肝心のところで、会津の火炎の人、フェリスの炎の人、賤子の内なる炎が燃え上がらないのである。
確かに世良田と時を過ごすのは楽しかった。話も弾んだ。特に世良田の外国の話は賤子には刺激的だった。アメリカの話、イギリスの話には夢中で耳を傾けた。しかしそれ以上ではないのだ。一人になると、賤子はホッとするのだ。心が広がるのだ。結婚相手に対してそれでいいのだろうかと、賤子は悩み始めた。
賤子は次第にわかってきた。自分には世良田を恋慕う思いがないのだ。結婚相手には、身を焦がし、彼のためなら死んでもいいような激しい感情が必要なのではないか。ひと時も離れていられないような、寝ても覚めても想い続け慕い続け恋い焦がれる炎が必要ではないか。
――私は世良田様を愛してはいない――。
賤子ははっきりそう悟った。
愛してもいない人とともに生きることはできない。神はどのようにお考えになるだろうか。キダー先生はじめ多くの人たちが親身になって自分のことを心配し、真心から幸せを願って薦めてくれるから、それをありがたく思って結婚するべきなのだろうか。また、世良田氏が自分を愛し受け入れてくださるから結婚するべきなのだろうか。しかしそれだけでは神の前に夫婦としてのまことの愛を誓うことはできない。それは神にうそをつくことになる。何よりも私は、神と自分自身に正直でありたい。
――だれが何と思うと、キダー先生がどんなに失望しても、お断りしよう――
賤子は数日間神の御前に自分をさらけ出して祈り続け、固く決意した。心に一陣の動揺もないことを確かめた。むしろ晴れ晴れとし、神の微笑みさえ感じた。世良田氏に直接お断りした。キダー先生にもありのままに打ち明けた。世良田の妹春子にも心を開いて話した。皆、理解してくれた。もちろんひどく残念がったけれど、賤子を非難する人はいなかった。世良田氏は心中の打撃は大きかったであろうが、潔く引き下がり、屈辱に耐えてくれた。賤子はいたずらに妥協しなかった自分に満足した。神の深いあわれみと導きに感謝した。
若松賤子の生涯 その13
*喀血
真夜中に眠りが途切れた。世良田氏の件が収まってからはずっと快眠でき、一気にさわやかな朝を迎えていたのだ。ところが、うっすらと目が覚めたとたん、胸に突き上げるものを感じた。慌てて夜着の袖を口に当てた。受けきれないほどの血であった。
「この血はなんだろう。喀血か……、もしかして私は、結核に冒されたのでは……。主よ、主よ、あわれんでください」
――立ち上がれるだろうか、明日、仕事ができるだろうか――
幸い喀血は一回きりであった。不快感も収まってきた。今さっきの出来事が夢の中のことのように思われるほど、体調は就寝前とちっとも変わらなかった。いっとき騒いだ心も鎮まった。朝になればもっと力が出て、いつものように生徒の前に立てる、いや、立つのだ。賤子は自分を奮い立たせた。一方で、喀血という事実は消せるものではない。体の中に見過ごしにできない異変が起こっていると思わずにはいられなかった。
賤子は血に染まった夜着を固く畳んだ。それを胸に押し付けながら思案に暮れた。
――たとえこのまましばらく収まったとしても、病に侵されていることは確かだ。信頼する方々にお伝えしないわけにはいかない。うそはつけない、神の前にも人の前にも。朝いちばん先にブース先生ご夫妻にお話ししよう――
賤子は床の上に正座すると、そのまま夜明けまで神の御名を呼び、祈り続けた。
翌朝、賤子はいつもより少し明るい色の着物と帯を揃えて装った。ブース校長のお考え一つで、もしかしたら昨日までとは違った道を行くことになるかもしれない。どのようになろうとも神がなさることに従うまでだと、すでに心は凪いでいた。
ブース校長夫妻は、穏やかな表情でじっと賤子の話に耳を傾けた。
「こんなことがあった以上、私はもう教師としてここにいてはいけないと思います」
賤子はすでに決心してそういったが、急に胸が詰まってしまった。
「だれが、ここにいてはいけないと言いましたか。私たちより先にそういった人がいますか。神がそう言いましたか」
ブース校長は畳みかけるように質問した。
「いいえ、だれも……」
「そうでしょう。ああ、よかった。今の気分はどうですか」
夫人が笑みを浮かべていった。
「はい、昨夜のことはうそのようで、いつもよりさわやかです」
「それはよかった。では、今日はいつものとおりにしてください」
ブース校長はやさしくそう言った。さらに、
「あなたには特別に休暇を用意しましょう。しばらく静養すればすっかり元気になる。さっそく適したところを探します」と語りかけた。
「まあ、あなた、いいことに気が付きましたわ。賤子、神がともにいてくださりますよ。なにも心配しないで静養してください」
賤子は肩を震わせてむせび泣いた。ブース夫妻の広く深い愛情が身に染みたのだ。今までにもキダー先生をはじめ、自分のようなものにそそがれる彼らの愛をもったいなく思うとともに、そこに人間を超えた神の愛が働いているのを見たのだ。今は二人のお言葉に甘えようと心を決めた。 賤子はそのひと冬を熱海で静養した。それが功を奏したのか、春にはフェリスに戻り、再び教壇に立つことができた。
賤子が学校内に創設した課外活動の文学会『時習会』が三周年を迎えた。この会は次第に全校挙げての事業に発展し、十月二一日は『時習会記念日』と定められ、三周年記念事業をすることになった。
発表会の当日、開会の辞の中で賤子は抱負を述べた。
「針と糸が女の仕事の象徴であった時代は過ぎ去りました。私たちは教育を受けた特権に安住せず、公益に最善を尽くさねばなりません」
この挨拶は日本の女性史にとって画期的な声明になった。後日、英文で『女学雑誌』に掲載された。
この一年前になるが、賤子はアメリカのバッサー・カレッジが企画した、世界各国の女性の状況の調査に、日本代表で担当した。賤子は日本における「女子教育の現状」と「自立の手段」の二つの柱を立ててまとめ、明治二〇年十一月に郵送した。その全文が『女学雑誌』九八号の付録に掲載され、また、翌年五月三〇日の東京日日新聞にも紹介され、反響を呼んだ。
賤子は「女子教育の現状」の中で、早婚と年季奉公、女中の習慣が女性の就学を妨げている。国立大学は女性を受け入れない。代わりにミッション・スクールが大きく貢献していると述べ、「自立の手段」では、女性の職種を具体的に挙げた。多くの女性たちは相変わらず茶道、生花、器楽、舞踏の師匠を仕事とし、また低収入しか得られない産婆、裁縫、洗濯、髪結いなどにやむを得ず就いている。最近ようやくいくつかの専門職の道が開かれてきており、その筆頭は学校の先生、特に英語教師が求められ、ミッション・スクールの卒業生が活躍している。続いて、現在、たった一人だが婦人科医(有資格者)がいる。〔筆者から・この婦人科医とは荻野吟子のことである。吟子は明治一八年に日本初の公認女医第一号として、本郷の三組町で開業中であった〕。さらに音楽、美術、文学などにも言及し、「日本の文化を一瞥するに、西洋の社会制度を取り入れようとしているがまだ本当の姿を学んでいない。キリスト教文化が社会の隅々にまで浸透することを祈る」と結んでいる。
賤子の女性論は社会の先端を行くものでありさらに未来へつながるものであった。こうした幅広い知識とそれを基にして理論を展開していく能力はどこから得たのであろうか。フェリスでの学びや教職期間が長いとはいえ、直接の教師たちはキリスト教伝道に来日した宣教師たちである。フェリスの授業も女性向きのものが多かったのだが、賤子の学識は高いものがあった。賤子は英文の書物を手に入れ、それらを通して欧米の知識を吸収してきた。
文学書はもちろんであった。賤子には体得した知識を表現する能力があった。文筆力である。その力は賤子のうちにひそかに燃え続ける火炎に熱せられ煽られて、人の理性に働きかける説得力と、心を揺さぶる情感あふれる文章となって出現した。
『女学雑誌』は賤子の文学的火炎を盛るのにまことに適した受け皿であった。これなくしては賤子の文筆の花は咲かなかったであろう。その意味では神が賤子のために特別に用意されたと言っても言い過ぎではないだろう。賤子の代名詞ともいえる『小公子』は実にこの雑誌を舞台に華麗に繰り広げられたのだから。
若松賤子の生涯 その14
*巌本善治(よしはる)との出会い・賤子の恋情
『女学雑誌』といえば、本来は賤子ではなくてまずこの雑誌の発行責任者である巌本善治に強烈なスポットライトを当てるのが順当である。『女学雑誌』と巌本善治さらに彼のもう一つの代名詞ともいえる『明治女学校』こそ、賤子の新しい人生を開く魅惑に満ちた扉であった。
『女学雑誌』に魅せられた賤子は、まもなく巌本善治に魅せられていく。巌本善治こそが若松賤子を燃やした生涯ただ一人の男性であった。二人はまもなく結婚へと進んでいく。二人を結ばせたのはキダー師でもミラー師でもなかった。二人の間に人は要らなかった。二人の主義、信条、さらに信仰が愛を生み、育てたといえる。具体的な愛の使者は『女学雑誌』であった。
巌本善治は明治に先立つ五年前、但馬国出石、今の兵庫県に生まれた。賤子より一つ年上である。明治一六年、同郷の木村熊二牧師から下谷教会で洗礼を受けた。明治一八年に『女学雑誌』を近藤賢三と創刊したが翌年近藤が急逝したため、善治は明治三七年、五二六号で廃刊になるまで編集者としての任を続けた。『女学』の要旨は『女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問』と定義づけられる。
善治の妹の香芽子がフェリスで学んでいたこともあって、あるとき善治は講演に来た。善治の手元には『女学雑誌』が、賤子には『時習会』の会誌があり、二人の女子教育と文学にたいする志はたちまち一つになった。じきに二人は同志になった。いくら話しても話は尽きず、いくら論じても話題は続出した。善治の内に燃える炎と賤子の火炎は同じ色合い、同じ温度で燃え始めた。
まもなく賤子の炎には善治への恋情が加わった。善治が賤子に対して特別な想いを抱く前に賤子の方が先に恋をした。賤子が、先に、恋をしたのである。少し前、世良田氏から熱き好意を示されたがどうしても気持ちが付いていけず一方的に破談にしたのに、善治には自分の方から先に思慕が募ったのだ。恋とは理屈ではないのだ。賤子は我がうちに高まる不思議な熱情に戸惑いつつ苦悶した。
――巌本氏と語っていると、今までに感じたことのない喜びがあふれてくる。氏の深い見識から生まれる意見に圧倒され、それに同調し、納得し、自分と一つだと思うと、信頼感が生まれる。しかし、それにもまして、一緒に語らうことがうれしくてたまらない。もしかして、わたしは巌本氏を慕っているのではないか。この想いはなんだろう。恋ではないだろうか。わたしは巌本氏に恋をしたのかもしれない。時々彼の話し声が消えてしまう。話題は何でもいいのだ。ただ彼がそばにいるだけでいい。いつもいっしょにいたい。昼も夜もいっときも離れたくない。帰したくない。帰っていかせたくない――。
二人は仕事を挟んで頻繁に会うようになった。恋は言葉より先に相手の心に伝わるものだ。賤子の想いに感づいた善治は初めひどく驚いたらしい。彼もまた女性論、恋愛論、結婚観を熱く論じてはいた。その論は時代を先取りした卓見であったが、聞き手が一人の若き生身の女性であることはあまり気にしなかったようだ。その理論に意気投合した賤子を同志としては見ていても、恋の相手、結婚の対象とは考えなかったのだ。
しかし、かたわらの賤子の全身から燃え上がる炎が見えないはずはない。その熱を感じないはずはなかった。賤子の中で女性性が眼覚めたように、突如、善治の男性性も目覚めた。そして、善治に賤子を拒む理由は何一つなかった。善治の驚きはたちまち歓喜に変わった。一組の若き男女の間に互いを慕う愛が芽生えたからには、結婚へ進んでいくことはごく自然のなりゆきであった。二人の意志は一つになった。外側から不都合や圧力のかかることは一つもなかった。
ひとつだけ賤子には恐れていることがあった。結核を患う身であることを打ち明けねばならなかった。それには勇気が要った。最後の最後で、善治に去られても仕方のないことであった。賤子は善治を信じ切っていたが一抹の不安がないわけではなかった。「巌本様、私は不治の病、結核に罹っています。今は元気ですが、今後、どうなるかわかりません。ご迷惑をおかけすることが起こるやもしれません。大切なお仕事のお邪魔になるかもしれません。それを思うと申し訳けなくてたまりません」
賤子は善治をひたと見つめながら、心の内を包み隠さず告げた。自分にも善治にも神の御前にも誠実でありたかった。「ああ、そのことですが、妹からとっくに聞いていますよ。また自然に耳に入ってきてもいます。あなたともあろう方が、そんなことで小さくなってどうするのです。病も健康も神のくださった賜物です。あなたのすべてを神がくださったのです。そのすべてを携えてあなたは私のもとに来てくださるのですね。私にしたところが、今のところ体は丈夫ですが、心の方はいたって弱い者です」
善治は大きな笑顔で賤子を励ました。
その一瞬、賤子の全身は炎と化した。内側からも外側からも火が吹きだし、燃え尽きてしまうかと思われた。しかし燃え尽きはしなかった。賤子は火炎の人であった。心の芯に強く激しい意志が立ち上がった。 この人とともに生きていきたい。働いていきたい。未知の世界へ、確かな希望に向かって進んでいきたい。賤子はあふれる涙のまま、思いをめぐらした。
――私は幸せ者。生まれたときから厳しい中にいたが、父母の愛があった、祖父母の愛があった。横浜の養父母にも愛された。キダー先生が愛してくださった。ブース夫妻が今もそばで慈しんでくださっている。そして、巌本様の愛がある。そのうえ神が永遠の愛で愛してくださっている。私は幸せ者。身に余る幸せをいただいている――。
明治二一年夏、二人は互いの意志を公にして、神と人との前で婚約した。その一一月、父、会津魂の塊であった松川勝次郎が亡くなった。愛娘賤子の慶事を知って安心したのだろうか。確かにこの一点こそが会津戦争以来のすべての労苦を忘れさせたに違いない。上京して賤子といっしょに暮したのはわずか半年余りであったが、勝次郎には不足はなかった。未来の花婿巌本善治にも会ったであろう。善治の人品は勝次郎を満足させるのに余りあるものがあった。きっと賤子を幸せにしてくれる人だ。それ以上に世のために偉大な働きをする人だと確信し、二人の将来に明るい光を見たにちがいない。
若松賤子の生涯 その15
*結婚
明治二二年は賤子の人生にとって大きな意味を持つ特別な年になった。
六月一日、フェリスは創立一四周年と献堂を兼ねた祝いの式を挙行した。前年に西校舎と南校舎が新築され、フェリスの第二期拡張工事が完成したのだ。緑の丘の上には赤い風車が立ち、まるで外国のようであった。冬場はスチームが通り、お湯が出るようにもなった。
式典は大講堂、三〇〇人を収容できるヴァン・スコイック・ホールで行われた。生徒数は一八五人に達した。賤子が寄宿した当時は二〇人にも満たない少人数であり、教師として就任した時でさえ四〇人ほどであった。なんという発展であろう。賤子は夢を見ているようであった。賤子は祝辞を述べた。賤子はフェリス開校の日を知っているただ一人の貴重な存在である。草創期からこの日までの一四年間を回顧しながら、明日へのビジョンまでを、あふれる思いをこめて説得力豊かに熱く語った。
演題は「Yesterday and Tomorrow」。
――フェリスは私にとって長い間隠れた唯一の家庭だった。私のうちにある良いところはすべてこの家庭で養われた。母であったミラー夫人は、女性は卒業したら家庭にはいるものと考えておられた。しかし女子教育に無関心であった世の中も婦人問題をとりあげるようになり、ブース校長は本格的な学校経営に着手した。カリキュラムを作り、施設の増築、生徒数の増加に大望を抱いて奮い立った。
今やフェリスを生み育てた英雄たちは私たち日本人に席を譲ろうとしている。母の仕事は終わった。これからは日本人が負わねばならない。フェリスは、かつて与えられしものを、与えるべく出ていこうではないか――。
賤子はフェリスの生きた見本であった。ミラー夫人、ブース校長のスピリットの化身だった。自立し社会へ進出して貢献する新しい女性像のモデルだった。賤子の内には消してはならない新しい炎が太く高く燃えていた。
賤子はこの講演を別れの言葉としてフェリスを去っていった。巌本善治夫人になるためであった。いや、それがすべてではなかった。若松賤子として、一人の女性として、フェリスで身に着けた資産を携えて社会へ出ていくためでもあった。
賤子は七歳でフェリスの前進「キダーさんの学校」へ入ってから一四年の「Yesterday」を背にして、身を乗り出すように「Tomorrow」へ輝く視線を送った。過去を思うと、時に涙とうめきが漏れたが、明日には涙はない。意志の人若松賤子は澄んだ瞳で行く手を見た。その瞳に、前途を阻むであろう荒波や挫折や悲哀がうっすらと見えないはずはなかったろう。しかし賤子は自分の内に燃える神の愛と夫になる善治の愛情を信じていた。会津以来の火炎の人若松賤子の希望の炎は巌本善治夫人になろうとする今、なお熱く勢いよく燃え盛っていた。
七月一八日、賤子は先に洗礼を受けた横浜海岸教会で結婚式を挙げた。
その日は朝から快晴になり、数日吹き荒れた南風も止んでうだるような暑さになった。賤子の装いは長襦袢も着物も帯も白ずくめだった。ただ、和装でありながら白いベールを被った。ウエディング・ドレスを薦められ、だれもがそれが当然だと思っていたが、賤子はこの時ばかりは義母のえいや妹のみやの手を借りて、かねて決めていた通りに整えた。ベールは証人の中島湘煙(とし子)が整えてくれた。湘煙は賤子の案を面白がった。湘煙は賤子がフェリスの生徒時代の漢文の教師であった。とはいえ一歳上でしかないが、女性教育と文筆で活躍しており、賤子の手本とする才媛であった。
夫君の中島信行は、前身は土佐藩士、会津城攻撃の時板垣退助とともに一番乗りで城下へ突入。家老であった西郷頼母の留守宅に乗り込んだとき、妻女以下幼い子どもまで二一人が自害していた現場を目の当たりにした。信行は後年折に触れて涙を流しながら語ったという。
花嫁姿の賤子は凛としてこのうえもなく美しかった。一輪の白薔薇かとまがうほど匂い立っていた。かたわらの善治は純和風の羽織袴である。仲人はいない。中島湘煙・信行夫妻が証人に立った。彼らもまた和服姿であった。式はいうまでもなくすべてキリスト教式で行われた。ミス・モルトンの奏楽の中を二人は静やかに入場した。参列者は親族からは妹の島田宮子、継母松川えいと義弟の一、善治の養父巌本範治、兄井上藤太郎、妹井上香芽子、フェリスの友人たち、ほかに木村熊二、亡き燈子夫人の弟田口卯吉、民権家植木枝盛等が居並んだ。
賤子は司式者ブース校長の方へ進みながらもベールを通して参列者の一人ひとりを意識した。皆心底から自分たちを祝ってくれているのだ。そう思うともったいないような幸せ感にあふれた。ふと、いちばんいてもらいたかった母へ思いがつながった。ひとかけらの記憶もないが母への恋しさがこみ上げてきた。同時に一年前に亡くなった父松次郎の面影がよみがえった。すぐそばにいるような気配さえ感じた。父と母に縋りつきたいような衝動が突き上げ、拭うすべもない涙がほほを伝わった。
奏楽の音の中に、賤子は善治の足取りと息遣いを聞き取っていた。
この人は今何を考えているのだろう。父や母を思っているのだろうか。私の夫になる人なのに、夫婦になる人なのに、今、考えていることがわからない。伴侶と言えども心の中はわからない。自分の心のようにはわからない。なんともどかしいことか。
賤子は当たり前のことだとわかっていながらも煩悶した。司式者の後方に視線を上げた。そこはほのかに明るかった。明るさは神から出ていることを信じた。そこには神がおられた。心の揺れは収まっていった。神がおられる。神は私のすべてを知っておられる。善治殿の心もすべて知っておられる。見ておられる。神は私たちを見ておられる。
式が終わり、挨拶が済むと、二人は一同に見送られて大宮へ発った。さしずめ新婚旅行といえよう。
式では賤子はやや気持ちの高揚から感傷的になったが、一方では善治と結婚し、新しい人生を踏み出すことへの意義と決意をいよいよ固くした。その思いはいっそう現実味を帯び、会津以来の火炎はさらに新しい色合いを加えて勢いを増した。
その思いを賤子は一篇の詩に託した。もちろん英文であった。
若松賤子の生涯 その16
*花嫁のベール
一
われら結婚せりと人は云う
また君はわれを得たりと思う
然らば、この白きベールを取りて
とくとわれをみ給え
見給え、きみを悩ます問題を
また君を嘆かす事柄を
見給え、君を怪しむ疑いの心を
またきみを信ずる信頼を
見給う如く、われはただ、ありふれし土
ありふれし露なるのみ
われを薔薇に造型せんとて
疲れて悔い給うなよ
ああ、このうすものを
くまなくうちふるいて
われそいとぐべきや 見給え
わが心をとくと見給え
その輝きの最も悪しきところを見給え
昨日君が得られしものは
今日はきみのものならず
過去はわれのものならず
われは誇り高くして 借り物を身につけず
君は新たに高くなり給いてよ
若しわれ 明日きみを愛さんがためには
二
われらは結婚せり、おお 願わくは
われらの愛の冷めぬことを
われにたためる翼あり
ベールの下にかくされて
光のごとくさとくして
きみに広げる力あり
その飛ぶ時は速くして
君は追い行くことを得ず
またいかに捕らえんとしても
しばらくしても 影の如く 夢の如く
きみの手より抜け出づる力をわれは持つ
三
いなとよ われを酷と言い給うな
われを取るを恐れ給うな
生ある限り われはきみのものなり
きみが思うがままの者とならん
結婚のしるしとして 覆いとして
わが白きベールをまとわん
きみはわが主
愛しき人なることをあかしせんがため
そは消え去りし平和を覆うもの
また筆舌に表しえぬ恵みのしるしなり
(乗杉タツ訳)
賤子は大宮への道々で胸深く秘めていたこの英詩の一葉を善治に手渡した。善治は驚きもせずいかにもうれしそうに受け取った。賤子は今までにも自分の思いを書面にしたためて送ることがあった。相対しての会話では熟慮した思いや意志や意見をとっさには語りつくせない。賤子は後からじっくり整理して書き表すことが好きだった。話すよりも書くほうが得手だと思えるからだ。善治のほうも文を送られるのが楽しくて心待ちにしてきた。
結婚早々のこの書面にはいったい何が書いてあるのか、賤子は何を言うのか、期待が膨らむのであった。
結婚にこぎつくまでの多忙な日々、とりわけ式に臨むための数日来の支度のために賤子の体力はかなり消耗していた。もともと結核を病む体であった。結核は不治の業病なのだ。気力だけでは済まないのだ。賤子は大宮までのわずかな車中でも意識が濁るほど疲れ果てていた。目を閉じて消え入りそうな細い息をやっと繋いでいるようだ。そのかたわで善治は書面を取り出して開いた。
賤子はうつらうつらしていたが、紙を開く音が耳に届くと、ふっと体のこわばりが消えて意識がはっきりし、気持ちが楽になった。
きっと善治殿は困惑しておられるだろう。
私の真意をはかりかねているかもいれない。
いや、全部理解し受け止めてくださっているかもしれない。
笑っているかもしれない。
もしかしたら楽しんでいるかもしれない。
善治はかなり長い時間じっと紙面に目を凝らし、小さくため息を漏らしながら考えているようであったが、それをまた折りたたんで懐中深く納め、賤子の肩を軽くたたいた。賤子はなにか言葉があるのかと待ち構えたが善治はずっと無言であった。しかし賤子は善治の気配から自分の思い、愛、理想がすべて理解され、同意されているのを感じ取った。賤子は満足した。自分たちの結婚は決して従来のような日本式因習にとらわれず、新しい時代の先駆けとなるものであり、新しい形の家庭を築いていくのだと、賤子の心はさらに強められた。善治は夫の役割、妻の役割を承知しつつ、人格的には神の御前に差別はないことを確認、確信したのであった。
善治はこの英詩を英文のまま「かすみ」というペンネームで「女学雑誌一七二号に掲載したが、「訳しがたきに艱やむ」とのコメントをしたまま、長い間訳されないまま手元に置かれていた。外部からの大きな反響もなく、読者のそれぞれがそっと味わい記憶の隅にしまったようである。賤子はそれで良しとした。
「この白きベールを取りて とくとわれをみ給え」と賤子は最愛の夫に渾身の思いを込めて投げかけたのだ。当時、花嫁が夫にここまで己をさらけ出すことは考えられないことであった。この一篇こそ、時代の先端を行く真新しい結婚を示す象徴と言える。一人の女性として妻としての人権宣言の羽ばたきと言える。その希望を、理想を、信念を、賤子は果たそうとしている。実現させようとしている。空理空論であってはならないのだ。賤子は意気高く新生活に飛び込んでいった。
若松賤子の生涯 その17
*明治女学校と賤子の家庭
そもそもフェリス時代から巌本善治、女学雑誌、そして明治女学校こそ賤子をひきつける強力な磁石であった。三つの力が一つになって賤子を抱え込み引っ張り込んだのだ。
結婚した賤子夫妻は東京麴町区三番町六七の新居に住んだ。この時善治は教頭であった。校長になるのは明治二六年である。同時に「女学雑誌」の主宰でもあった。
ここで明治女学校の成り立ちを紐解いてみる。 女学校はプロテスタントの牧師木村熊二が女子教育を目的として一八八五年に九段下牛ケ淵(千代田区飯田橋)に開校した。発起人は島田三郎、田口卯吉、植村正久、巌本善治であり、熊二の妻の田口卯吉の姉の鐙子(とうこ)が代表を務めた。ところが翌年鐙子がコレラで急逝してしまった。急きょ善治が教頭になって実務を執った。善治が賤子と逢うようになったのは教頭時代である。熊二と善治の関係であるが、二人は前述しているが同郷人であり、善治は下谷教会で熊二から洗礼を受けている。善治が二代目の校長になるのは明治二五年、賤子と結婚して三年目のことである。
善治は学校創立の年の二か月早く創刊した『女学雑誌』の主宰もしていたことから、寄稿者を教師として招いた。星野天知、北村透谷、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村、青柳有美ら新進の若い文人たち、哲学者、国文学者、すでに牧師として有名な植村正久、また内村鑑三もある時期教師として生徒の前に立った。そうそうたる気鋭たちである。今風には豪華キャストというのだろう。女性たちの顔ぶれもにぎやかであった。音楽の幸田延子、英語の津田梅子・若松賤子、医学の荻野吟子らも教えた。著者としては若き文学者たちの一人ひとりに言及したいが脇に置くとして、特に女性たちには一言添えたい。
音楽家の幸田延子はかの文豪幸田露伴の実妹であり、露伴の娘幸田文の叔母に当たる。津田梅子が津田塾大の創立者であることはあまりにも有名であるが、医学の荻野吟子を知る人は多くない。吟子は日本初の公認第一号の女医として先駆的な働きをした。先年筆者は吟子の生涯に胸打たれ『利根川の風』を上梓した。
賤子はフェリス時代から吟子の名声を聞き知っていて、講演の中でも吟子の名を上げている。まだそのときは面識はなかったであろうが。
ついでながら、これも先述したが、父松川勝次郎が東京麻布の賤子宅に転入するにあたっての転出先は札幌県後志国字島静色内町八番地である。この地は会津藩が斗南に屈辱の国替えになってから、その後、加増された土地である。勝次郎以下元会津藩士はそこにも入植して行った。
先般吟子の足跡をたどって、北海道のせたな町を訪ねたとき、町の一隅に『会津』と刻んだ一メートルほどの木柱を見た。これは会津の人たちが住んでいた証拠である。
奇しくも、筆者の血を沸かす二人のパイオニア荻野吟子と若松賤子のかぼそい接点を見つけることができたのだ、なんという感激であろう。ところがその接点は面になるのである。賤子が結婚したころ、吟子は講師として医学衛生看護学を教えていた。吟子は同じ千代田区の本郷三組町に産婦人科を開業していた。善治は女子生徒たちには思想、文学もいいけれど、吟子の医学など実践的な学問も必要だと考えて吟子を招聘した。同時に校医としても就いてもらった。病身な賤子を思う一念が影響したのかもしれなかった。
明治女学校は全国に名を馳せ一世を風靡した流行の先端を行く学校であった。全国から誇り高き良家の女性たちが集まってきたが校舎や設備は簡素というより粗末であった。フェリスには足元にも及ばなかった。ちょうどこのころ相馬国光と言って仙台からフェリスへ入ったもののその校風を拒否して明治女学校に入寮した悍馬のような才媛が、自著の中で「その建物の粗末なことは、そういう若い精神が盛られている学校とは見えない程で、机も椅子もがたがた、設備の点では全く零(ぜろ)な学校でした」と物語っている。
賤子は結婚早々矢継ぎ早に「野菊」、「御向こうの離れ」、「すみれ」、「忘れ形見」を口語体で女学雑誌に発表した。しかし賤子は人知れず健康に悩んでいた。不治の病である病魔の攻撃にしばしば立ち往生した。内に燃え、あふれ出る火炎を表現したいのだが、根を詰めるとたちまち燃え尽きてしまいそうで、身の置き所のないほどの倦怠感に覆われた。
賤子はおぼつかない足取りで校医荻野吟子を訪れることがあった。血の気の失せた蠟のような面に吟子は深く同情した。
「ミセスが持病をお抱えのことは陰ながら耳にしていました」
吟子は賤子をミセスと呼んだ。その斬新な呼び名を賤子は気に入った。
「私も荻野先生のご高名は以前から存じ上げ、先生の生き方に共感しておりました」
賤子は自分とは十歳以上も年上の吟子が頼もしい姉のように思われた。しかも医学のプロであることが心強かった。
「持病はなかなか完治しません。特効薬でも発明されない限り上手に付き合っていくしかありません」
吟子の言葉には実感がにじみ出ていた。賤子は知らなかったが吟子には若き日に夫から移された性病が今もしぶとく巣食い、時に頭をもたげることがあった。
「はい、ドクターからもアドヴァイスをいただいています。しかし私は神から託された使命があります。それを推進するためには、この命も惜しくはありません」
「ミセスの情熱と使命感と優れた賜物には敬服するばかりですが、体が元手です。養生なさってください。それと、赤ちゃんがおられますね」
吟子はさりげなく言った。
「えっ、赤ちゃんが」
賤子ははっと面を上げた。頬がパッと赤らみきらきらと瞳が輝きだした。
「私の専門は産婦人科です。お産のお手伝いもしますよ」
ついでながら荻野吟子は性病のために不妊の体になり、その後離縁され、一念発起して、女医の道を選び、前人未到の苦節十余年を歩んで、日本初の公認女医の免許を手に入れた鉄女であった。
若松賤子の生涯 その18
*文筆活動・小公子の翻訳・言文一致体を模索
賤子は文体に苦慮していた。結婚後発表した作品は口語体を使ったがまだまだ自分でも納得はしていない。しかし従来の漢文くずしや雅文体では十分に自己表現できない制約を感じていた。賤子がいちばん使いやすいのは英語であり英文である。しかしこれを発表の媒体とするのは言うまでもなく不可能である。
もっと日常使う口語のような文体がほしかった。文末は「です」、「ます」で結びたかった。同じ時期に「言文一致体」に挑戦したのは二葉亭四迷であった。もちろん二人に出会いがあったわけではない。それぞれ孤独に試行錯誤、苦心惨憺、孤軍奮闘していたのであった。二人とも時代の流れを先取りしていたのかもしれない。しかし先駆者の仕事は困難を極める。二葉亭四迷は「浮雲」第三篇を発表した後、根が尽きてしまった。
結婚の翌年、明治二三年九月二七日、賤子は長女清子を無事出産した。母子ともに元気であった。胸を患う身には生まれる日まで不安が付きまとった。周囲もハラハラした。そもそも不治の病を抱えては結婚そのものに苦言を持つ人もいた。無理からぬことであるから、賤子夫妻はその圧力に耐えるのも容易ではなかった。それだけに元気な赤子の誕生は夫妻にとって二重、三重の喜びであった。賤子には単に母になったという以上の思いがあった。
新しい家庭像を描きそれを築こうとする賤子は「我ら二人なりしホームに先頃客人の来まして、はじめてまことの家庭を成しつるなり」と記している。賤子は、我が子はホームの客人というのだ。我が子は親の所有物ではなく、お越しくださったお客様というのである。ここには子どもは神からの預かり物、神からの使者であるとのキリスト教スピリットが躍如としていた。
賤子は懐妊と同時に代表作となる『小公子』の口語訳に手を染め、『女学雑誌』に連載を始めた。それは明治二五年一月まで丸一年半で完結した。その間に長男荘民をも出産した。ところが賤子にとっては単純な出産と育児では収まらず、時に持病が牙をむき体をさいなむこともあった。執筆はそうしたすさまじいばかりの戦いの中で進められた。
先述の相馬黒光は「病躯を床の上に横たえながらの仕事ですから、いっそう疲労も甚だしかったようです」と記す。しかし賤子は泣き言はいわない。一番近くにいる夫善治だけは妻を凝視し、実情を把握していたであろうが、差し出がましい忠告は極力避けた。妻の人格と使命感と情熱を重んじて全幅の信頼を寄せ、働きを受け入れていた。一方賤子もまた善治の大きな愛情を感謝し、同時に周囲の人々の気遣いを痛いほど察し、ありがたく思うものの、生き方を変える思いはなかった。
『小公子』は当時の有名な文学者たちの賞賛を余すところなく勝ち取った。坪内逍遥、石橋忍月、森田思軒らが絶賛し、その他、森鴎外、巌谷小波等からも好評を博し、「豆腐と言文一致は嫌いだ」と豪語する尾崎紅葉にも一目置かれた。こうして『小公子』は広く愛読され、賤子の代表作となった。
蛇足であるが、『小公子』の原作者バーネットはイギリス人であるが、一六歳の時、南北戦争が終わったばかりのアメリカへ移住した。『小公子』は一八八六年に出版されている。賤子が連載を始めたのはその四年後である。
若松賤子の生涯 その19
*賤子の病状・転地
清子、荘民の二児を抱えながらも賤子の執筆力は弱まるどころか反対に勢いを強めていた。ただしその分病魔も負の勢いを増し、賤子の体奥深くまで浸食していった。賤子は『小公子』執筆中からすでに床を敷きっぱなしであった。
育児と家事を支えるのは妹のみやであった。みやは賤子より四つ下である。かの会津戦争の真っ只中、城下が戦乱の炎と化し、賤子が祖母、母に手を引かれて命からがら逃げる途上で生まれたのであった 産湯を使うところもなく、飢えのために出ない乳房にしゃぶりつきながら細い声で泣いていたのだ。母は衰弱して死んだがみやは強かった。賤子は七歳で横浜に貰われてきたがみやがどこでだれにどのようにして育てられたかは知るすべはなかった。
ところが賤子には全能の神の不思議な導きとしか思えないのだが、みやと父松次郎の消息が分かりともに暮らすことさえできたのだ。みやは賤子の計らいでフェリスで学業を修めた。
賤子が結婚して病身ながら子どもも生まれ、教頭夫人(善治が正式に二代目校長になる明治二五年)としてまた教育者、文筆家として多忙を極めるようになると、専心、姉を助けるようになった。賤子には何にも勝る味方であった。善治は学校や雑誌運営のため全国を駆け回っていた。病床を訪れることも夫婦で時間を過ごすことも稀であった。
「みやさん、あなたがこんなにたくましく賢い女性になるなんて、想像もできませんでした。母上がおられないのは返す返すも悲しく悔しいことだけど、あなたがいることがどんなにすばらしいことか、神に感謝するばかりです」
賤子はみやに話しかけた。みやの膝には清子も荘民も抱かれている。
「私はいくさも母上のこともひとかけらも覚えていません。お祖母様とあね様がおられたらしい気配が感じとして残っているだけです。今はなによりも、当代きっての名女性におなりのあね様のおそばにいられることが誇らしくうれしくて、私も神に感謝するばかりです」
「私が安心して仕事ができるのはあなたがいてくれるからです。みやさん、私はね、自分の命が長くないことを察しています……」
賤子は思いつめた目でみやの視線を捕まえようとした。みやははっとしながらもさりげなく賤子の視線を逃れた。
「あね様、人の命は神さまの御手の中にあるのではないでしょうか」
「そうでした。軽率でした。でも、でも……」
賤子は血を分けた妹だけには言いたのだ、頼みたいのだ、自分亡きあとの子どもたちのことを。
「あね様。お気持ちはわかりすぎるくらいわかっているつもりです。今は存分にお仕事をなさってください。何もご心配なさらずに」
「みやさんの言われたことは胸深く刻んでおきます。ありがとう。神さまに感謝します」
「あね様には何と言ってもお義兄さまがおられます。神さまのような大きな愛であね様を愛し包まれるご立派なお義兄さまがおられます、頼もしいお方だと尊敬しています」
「もちろん、ですとも。でも善治には私よりもっと大きな使命があります。神さまから託された使命です。命がけで働かれるでしょう。私は足手まといにはなりたくない」
そう言いながら、賤子は少しばかり寂しい気持ちになることもあった。
――白きヴェールを取りて とくとわれをみたまえ――
――わが心をとくとみたまえ――
賤子は結婚の日に贈った英詩の一節を胸の中で反芻した。あの日以来、善治の口からは詩の話題は一度もなかったし、今になっては詩の所在さえ知らなかった。あの頃、賤子は本心では「詩」を挟んでとことん議論したかった、意見も聞きたかったし自分の思いも洗いざらい吐露したかった。婚約時代の続きを期待するほのかに甘い思いもあった。
だが現実はそれを許してはくれなかった。時間は二人を別々の流れに引きずり込んだ。善治は多忙であった。賤子も多忙であった。互いに家庭人であるより先に社会人だった。使命に基づく事業があった。志は間違うことなく一つであったが、具体的な活動は個々に違っていた。つまり、四六時中いっしょにいるわけにはいかなかったのだ。その上、賤子には女性に与えられた最大の使命、妊娠、出産、育児があった。
賤子の体力は限界を超えていた。賤子は自分を知らないわけではなかった。しかし、内に燃える火炎には勝てなかった。炎を消してまで手を休め安楽を得たいとは思わなかった。
賤子の病状は目に見えて悪化していった。医師は転地を勧めた。善治も周囲も賛同した。
明治二五年三月、賤子は清子、前の年に生まれた荘民を連れて北豊島郡王子村字上の原に移転した。そこは桜の名所飛鳥山公園にほど近かった。翌年には善治も王子へ住むようになり、そこから麹町へかよった。善治は自ら住まいを「安息蘆」と命名した。折から時局は危機をはらみ、善治は学校経営の資金繰りのために疲労しきっていたので、久しぶりの家族との団らんは得難い休息になった。
賤子は膝に吾子らを抱きながらもけっして筆の手を止めることはなかった。王子村でのおよそ三年の間に六〇篇ほどの作品をものした。その中には『小公子』に対になる同じバーネット夫人の『小公女』の翻訳もあった。
二七年八月には二女民子を出産した。日本が日清戦争へ突入したばかりの時であった。
若松賤子の生涯 その20
*再び東京へ・明治女学校焼失・賤子の召天
明治二八年、三一歳になった賤子は、王子村で生まれた民子を加えて三人の子の母となっていた。そもそも主治医高田耕安は二人の結婚の時に「肺結核は子孫のためにいけない」と反対したほどであるが、賤子は助言に感謝しながらも、子どもは神からの預かりものと確信していたので、自分の命は勘定に入れず、難行に挑戦してきた。だから元気な三人の子どもを抱きかかえながら、天にものぼるほどの歓喜に包まれていた。
しかも、そのうえである、賤子は四人目の生命を宿したことを知った。しかしだれの目にももはや生み出す力がないことは一目瞭然であった。さすがに医師ははっきりと強く中絶を示した。賤子に恐れはなかった。それどころか新しい生命が我がうちに息づいているのを知ると、全身に力が満ちてくるのを体感したのだ。聖書の言葉が聞こえてきた。『わたしの力は弱いところに完全に現れる』というものであった。賤子は神が直接語りかけてくださったと信じた。この生命のためになんとしても生きねばならない。
久しぶりに床から起き上がり、着替えまでして頬を紅潮させながら立ち働いた。善治もみやもただ茫然と目を見張るばかりだけであった。
「私たち、麹町に帰りましょう。すぐにでも。今度の赤ちゃんは麹町で生みたいのです」
みやはいたたまれずその場を走り去って慟哭した。
善治も賤子の意見に同意した。移転の支度は賤子には過重な負担になり、命を縮めることになるかもしれないと思わないではなかったが、今はもう賤子の希望をすべて叶えてやるしかない、それが最善だと判断した。賤子は、たとえ無事に出産できたとしても自分の命はそこまでだと悟っていた。だからこそ、家族が暮らしやすいように、さらに善治の仕事場でもある学校内に移らねばならないと考えたのだ。
秋の訪れを待ちかねて巌本家は王子での転地生活に終止符を打ち、麹町区下六番町六番地の明治女学校の構内にある校長舎へ移った。賤子には目の前に「死」の扉のノブが見えていた。扉は一陣の風でも全開してしまうのがわかっていた。病勢は進んでいた。咳が続き呼吸困難に陥ることもあった。
前述したが、フェリスからわざわざ転校した相馬黒光は賤子に会えることを楽しみにしていた。ところが授業を受けるどころか、寄宿舎の二階の窓から見える校長舎には「時々廊下に憔悴した賤子の姿がみえるばかり」でとても面会を申し込めるような状況ではなかったという。のちに黒光が自著の中で記している賤子への感想は貴重である。
『理智と教養のあらわれた際立った顔、大きく注意深いやさしい目、神経質ではあったけれど、自制力もあって、成人してからの女史は、あれほど外国人の特質をのみ込み同情と同感を充分に持ちながら、やはり日本婦人らしい魂を最も強くあらわしていたとは、当時の外人教師たちの後に思い出として語るところでありました』
病状はますます絶望の色が濃くなってきたが賤子の執筆の手は止まらなかった。
この年の締めくくりとして『日本伝道新報』一二月号に『私の知っている少女たち』を英文でまとめて発表した。賤子は書く。「ミッション・スクールの一四年の学園生活で、いろいろな少女たちと会いました。……その人たちの顔がわが脳裏に、なんと押し合いへし合いひしめくことでしょう」
賤子は今までも有名無名の女性たちを簡略ではあるがほとんど毎号取り上げてきた。賤子が書きたいと願ったのは同性の歴史、民衆の歩みだった。「ご覧の通り、私はヘボ作家ではありますが、不器用にこつこつと働いてきました」と述懐している。
年が改まって明治二九年(一八九六年)二月四日、その夕べ、賤子は久しぶりに家にいた善治ほか二、三人の知人たちと歓談の時を過ごした。ときどきお腹の子の胎動を感じながら、母子の命が保たれていることを喜び、神に感謝していた。
夜更けて五日の午前二時半ごろ、明治女学校は教員宿舎の一階のパン屋から出火した。火事である。真冬の深夜の事であった。学生の寄宿舎、賤子家族の校長舎などすべてはほとんど焼けてしまった。
幸い、三〇人ほどの生徒たちは日ごろの訓練の成果で落ち着いて行動し、四谷坂町にある善治の妹香芽子の嫁ぎ先木村俊吉宅へ避難、全員無事であった。一方、火元に近い巌本家は火の勢いが強く着替えする暇もなくみやとねえやが三人の子をおぶって逃れた。最後に賤子は消防夫に助けられながら一丁西の学習院教授石川角次郎宅へ避難した。善治は先頭に立って消火に当たった。
賤子は氷雨のあとのぬかるみ道を引き摺られ、抱えられていった。一瞬、会津の戦火を逃げまどった記憶がよみがえり、重なった。母と祖母がそばにいる気がした。賤子は小さく「母上、お祖母様」とくり返した。また「神よ、主よ」と祈りをくり返した。あの時、母の胎内には「みや」が宿っていた。母は死んだがみやは今も元気にしている。私の子もきっとみやのように生き延びる、たとえ私が母のように死んでも、この子はきっと生きる。
一日置いて七日の夕刻の事であった。賤子の容態はいよいよ危険になった。みやは善治を呼びに走った。善治はすべてを悟り病床に駆けつけた。賤子は最後の喀血をした。
十日、午後一時半、高田医博と善治の二人だけが見守った。
賤子の意識は最期まではっきりしていて、「お墓には、賤子、とだけ、彫ってください。親しい方にだけお知らせして、葬儀は公にせず、伝記なども書いてはいや。人に話すようなことは何もしていません。一生、基督の恵みを感謝した、とだけ言ってください」、その後「ありがとう」と言って、五分後に息を引き取った。明治二九年二月一〇月曜日、満三二歳に満たない短い生涯であった。 高田耕安医博は死因を「心臓麻痺」と診断した。
葬儀は一二日午前八時、避難していた石川邸で執り行われ、染井の墓地に葬られた。その日は寒風強く雪もよいの曇り空であった。生徒たちの合唱する葬送曲が風に舞った。
その後も善治は賤子との約束を守って伝記を書くことはしなかった。ひそかに日記に追憶の思いを記し、家族にだけ見せたが、大戦中の東京空襲で焼け失せてしまった。
賤子の一生は死後までも火炎がつきまとった。まことに若松賤子は火炎の人であった。墓石にはただ『賤子』とだけ記された。
若松賤子の生涯 最終回
あとがき
賤子の足跡を追って
二〇一六年七月一二日、まだ梅雨は明けやらずでしたが、東京は朝から快晴でした。深く青く澄んだ真夏のような空の下を会津若松目指して東北新幹線に乗り、郡山へ向かいました。そこから磐越西線に乗り換えました。車窓から青田の広がるかなたに磐梯山の雄姿が見え、東北地方の力強さを感じました。
旅の目的は賤子の生家に立つ『文学碑』を確かめるためでした。地番表示の青地のプレートに白い字で『会津若松宮町6』とあり、そばには『旧弥生町』と彫られた石板が立っていました。『古川家』の門前です。
その裏庭に、うっそうと生い茂った夏草の群れに埋もれるように石の『文学碑』がありました。折から盛りののうぜんかずらの真っ赤な花が額縁のように枝垂れ咲いていました。
碑には賤子の魂の告白ともいうべき
『私の生涯は神の恵みを/最後まで心にとどめた/ということより外に/語るなにものもない/ 若松賤子』が、ようやく読み取れる程度に細くかすかに彫られていました。あたりは観光地化された鶴ヶ城界隈の華やいだ雰囲気はなく、賤子の愛した古都にふさわしくひっそりと静まり返っており、文学碑を見つめながらしばらく賤子を偲びました。
東京豊島区にある賤子の墓所、染井霊園にも行ってみました。墓石には確かに『賤子』としか彫ってありませんでした。神の賤女とする自己評価を喜んで貫いた静謐満ちる強い信仰を目の当たりにして、賤子への敬慕の思いが激しく突き上げてきました。
また並んで善治のお墓があり、さらに長男荘民夫妻と娘巌本真理の墓石がありました。巌本真理は世界的に有名なヴァイオリニストです。
ある一日は横浜に行きました。賤子の生涯の結晶ともいえるフェリス女学院を眺め、洗礼を受け、結婚式を挙げた横浜海岸教会では、敷地内を歩き回りました。
文中でも触れましたが、明治女学校の講師、校医、舎監になった『荻野吟子』がその後渡った北海道のせたな町を訪れた時、町の一隅に「会津」という木柱を発見し、この地が、賤子の父勝次郎が何年か居住した地であることを知り、歴史の妙技に胸が震えました。ついでに寄った函館では五稜郭に行きましたが、ここは父勝次郎も含めて会津藩士が最後の戦いをした場所でした。
近くは千代田区六番町の明治女学校跡にも行ってみました。銘板があるだけで当時の面影はひとかけらもありません。寂しい限りでした。本文では触れませんでしたが、あれほどの名声を博し、当時の有名文化人たちが出入りして時代の先端を走った学校が、一夜にして焼失し、その後巣鴨の庚申塚に再建されたものの、明治四二年には廃校となってしまったのです。少し前の三七年には、かの『女学雑誌』も廃刊に追い込まれました。廃校、廃刊という悲しい響きを耳にしながら、その理由はどこにあるのかと問わざるを得ない心境です。しかし、真実は神だけが知っておられるのでしょう。
賤子を取り巻く周辺事情、また賤子の文学活動、教育活動、著作については膨大な数の文書がでています。本著はその中のほんの数冊をもとにしました。また本著は研究書ではありません。日本の歴史の中でも稀有な激動の時代に、稀有な激動の生涯を送った若松賤子という楚々たる女性の小史です。賤子の遭遇した出来事とその時の心境に想像の筆を入れながら記しました。
賤子がもし長命であったならどれほどの偉業を成し遂げたかと、思い返すたびに残念でなりません。わずか三二歳足らずで神さまのもとに旅立ってしまったとは、あまりに悲しすぎやしませんか。しかし、神さまの真意はここでも深すぎて計り知れません。賤子が一途に神さまを慕ったために、神さまが引き寄せたと思うしかありません。それにはだれが逆らえましょうか。
賤子は晩年、有名無名の女性たちを簡略ではあるが書きたいと願ったそうです。筆者は賤子の遺志を深く心にとめ、まずは賤子を書こうと意を固めました。
ここで、「キダーさん」についてもう少し加えたいのです。補足ではありません、書き足りなかったのです。賤子が、私のことはいいからもっとキダー先生を書いて!と言っている細い声が聞こえるのです。
ミラー夫人ことメアリー・エディ・キダーは草創して一〇年になるフェリスを退くと、四国、信州上田、盛岡、北海道など日本各地を回って伝道に従事しました。
ところが明治三三年五月(この時賤子はすでに帰天していますが)に、乳がんの手術を受けます。その後アメリカに帰国しますが、三八年秋に日本に帰ってきました。しかしまもなくがんが再発して病床に伏し、明治四三年六月二四日、東京麹町区平河町の自宅で生涯を終えました。時に七六歳でした。
日本最初の女性宣教師として来日し、女子教育に重荷を負い「フェリス女学院」の礎を築いたキダー先生は、賤子にとっては生みの親にも勝るまことの親、慈愛に満ちた母でした。キダーとの出会いとその愛が無かったら、賤子は、「島田かし」のままであり、神さまの愛を知る「若松賤子」はいなかったかもしれず、まして賤子の手になる『小公子』は誕生しなかったかもしれません。 なお末筆ながら、キダー先生は横浜の外人墓地に葬られていることを添えます。 二〇一七年葉桜のころ
■参考資料
山口玲子『とくと我を見たまえ』
相馬黒光『黙移』
相馬黒光『明治初期の三女性』
早乙女 貢『明治の兄妹』人物往来社
フェリス女学院編訳『キダー書簡集』
■訪問地
フェリス女学院・横浜市中区山手町
横浜海岸教会・横浜市中区日本大通
染井霊園・東京都豊島区駒込五丁目
明治女学校跡・千代田区六番町
会津若松市生誕地 福島県会津若松市宮町
函館五稜郭 函館市五稜郭町
北海道久遠郡せたな町(当時は札幌県後志国字島静色内町)