ヨセフの生涯を思う その1     寄稿者  旅女

旧約聖書『創世記』のクライマックスはなんといっても、アンカーを務めるヨセフの物語であろう。ヨセフが登場してくると、途中で止められなくなる。そして、必ず涙を流してしまう。何回読んでもそうである。いくつかの同じ箇所で泣くことが多い。多くの人が同じ経験をしていると思う。
、今までの他に、もう一箇所泣いたところがあった。

『ヨセフは車を整え、父イスラエル(ヤコブのこと)を迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた』46章29節。

ヨセフは17歳のとき兄弟たちの手で隊商に売り飛ばされエジプトへ連れて行かれた。父ヤコブの11番目の息子として溺愛され、袖付きの長服を着ていたヨセフは一転、奴隷の身に突き落とされた。腹違いとはいえ弟を売るなどと、とんでもないことだが、その原因は父の偏愛にあった。愛される弟を妬んだのである。世に妬みほど恐ろしいものはない。ヨセフは異国の地であらん限りの辛酸をなめつくし、この世の地獄を味わった。なんとむごいことよと同情の涙があふれ流れる。

しかしヨセフは境遇に負けて悪の道へ進むことはなかった。その時その時を誠実に生きた。無力なヨセフにたった一つ残されたのは神様への信仰であった。それは父祖アブラハム以来、家に伝わる信仰だったと思う。父ヤコブも完全無欠な人ではなかったが、家庭の中に大河のように流れ続ける信仰の力を、幼いときから肌で知っていたのだろう。それが逆境の中で効力を発揮した。どんなときも自分に注がれる神の愛を鋭く知り、神の臨在の前に生きた。確かに神の祝福はヨセフの上にとどまり続けた。

パロの難解な夢を説き明かしたことから、無実の罪で囚人とされていたヨセフは、一躍エジプトの宰相に躍り上がった。シンデレラ的、あるいはエステル的逆転劇である。思わず立ち上がって拍手したくなる。しかし紙芝居のような薄っぺらなサクセスストーリーではない。宰相ヨセフの双肩には、国家を饑餓から救う重責がのしかかっていた。一つ間違えばたちどころに地位も命もないことは自明のことだったろう。恐ろしい緊張の中で、ヨセフは一つ一つ救済事業を進めていった。神様が知恵と勇気を授けてくださった。

7年間の豊作のあとにやってきた凶作はエジプトだけでなく、当時の世界中をも饑餓のどん底に突き落とした。カナンの地も免れることはできなかった。ついに父ヤコブは食料があると聞こえてきたエジプトへ息子たちを買い出しに遣わすのだ。10人の兄弟たちはまるで物乞いのように、権力者ヨセフの前にひれ伏した。それが、自分の弟ヨセフであるなどとは露ほども知らない。神様のシナリオの巧みさには息もつけないほどだ。ヨセフは一目で兄たちとわかったが、すぐさま名乗ることはできない。忍び泣くヨセフの心情が熱く胸に迫ってくる。あと5年は続く飢饉から生き延びるために、パロは、ヨセフの一族郎党をエジプトに住まわせることにした。こうして、ヤコブを筆頭に総勢70名が遠路エジプトに移住していった。

冒頭の聖句は、父ヤコブとヨセフの再会の時を記したものだ。当時ヨセフは50歳であったろう。父の顔を見るのは実に33年ぶりになる。おそらくヨセフはエジプトの宰相、並ぶ者なき高官だから、エジプト流の装束に身を包み、大いに威厳を備えていたであろうが、父を見るなりいきなり首に抱きついたのである。ヨセフは17歳の少年に戻っていた。ヤコブも110歳の老人ではなく、かつての慈愛に満ちた頼もしい父親に戻っていた。歳月の溝はあっという間にかき消え、ヨセフは「アッバ、父よ」と叫んだことだろう。そして、首にすがって泣き続けたのだ。泣き続けたとは、時間の経過を表わしている。いつまでもいつまでも泣いたのである。その涙は33年の悪夢を押し流してくれたことだろう。

父にすがりついて泣き続けるヨセフの姿とその胸中を想像して、泣かずにはいられなかった。辛かった日々を思い出したろう、苦しかった日が浮かんできただろう。その間一日として、父と故郷カナンを忘れることはなかったであろう。再会などはとっくにあきらめていたかも知れない。しかし、現実のことになった。しばらくは夢うつつに思われたろう。事実を確かめるために、泣きながらなんどもなんども父の顔を見ただろう。そして、ヤコブもまた同じ思いだったろう。

私の思いは走りに走った。ヤコブとヨセフの再会が、天に帰ったイエス様と父なる神様に思えた。イエス様は、あのベツレヘムの家畜小屋に生まれ、十字架の苦難を忍び通した。その間奇しくも33年間。イエス様は、父なる神様の首にしがみついて『アッバ 父よ』とむせび泣いたのではないだろうか。もちろん全くの想像である。次元の低い貧しき想像である。笑われてしまうかも知れない。

そして、自分が天に帰ってイエス様(神様)にお会いしたとき、はやりその首に抱きついていつまでもいつまでも泣き続けるのではないだろうかと、ふと、思ってしまった。これも的の外れた想像であろう。でも私は泣きたい、主のみふところの中で心ゆくまで泣き続けたい。     (続く)

2024年02月01日