心の風を捕らえなければならない 寄稿者 草枕

ブログを書いている間に次々と子どものように11個のカテゴリーを設けてしまった。いささか多産である。全部に公平に目をかけてきたつもりであったが、気がついたら、心の風は昨年9月以来放ってあった。忘れたわけではなかったのだが継子のようだ。

心に風の吹かない日はない。その風は他のどこにも振り分けることができない。だからこそ、生み出すときに『このカテゴリーでは心の内側から吹き上げる喜怒哀楽の風、東西南北の外界から吹き込む風による心情を発信してみます』と意気込んだのである。

ところが、内側から吹き上げる喜怒哀楽の風にしろ、外界から吹き込む風にしろ、しっかりとキャッチして消化し、さらに文章化しようと試みる間に消えてしまうのだ。
たとえば、あることでひどく立腹しあるいは傷つき、かっかと怒ってみるが、その憤懣を持続あるいはエスカレートさせて、書きまくってみたいと思ううちに、手放した風船のように空の彼方に飛んでいってしまうのだ。気がついたときは、ま、いいでしょう、神さまはすべてご存じなのだから、と落ちついてしまう。

あるいは、なにもかもいやになって自己不信、人間不信に陥って、神さまにまで愚痴を言うほどのことも、泥沼にはまりこむ前に、我に返り、弱さと不信仰に気がつき、悔い改めることで平安になってしまう。そして神さまは、こんな私をも許し受け入れ、愛し、恵んでくださっていることがうれしくて、ありがたくて、喜びに満たされてしまう。

しかし、だからといって、心の風力がゼロメートルであるはずがない。その微かなひとそよぎを鋭く感じ分け、言葉にしなければとおもう。感性を磨かねばなるまい。年のせいにしてはいられない。年齢相応の新しい豊かな感性を養い育て、吹き上げ、吹き付ける新しい心の風を捕らえなければいけない。
もっと心の深さをみつめ、いのちの深さを大切にしなければいけない。
希望の風を発見しなければならない。

2024年01月22日