ヨセフの生涯を思う その3   寄稿者 旅女

出エジプト記はヤコブの一族総勢70名がヨセフのいるエジプトへ下った記事から始まっている。その5節に『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。とある。いつもはさっと素通りする箇所なのに、今回は釘付けになった。なんどもなんども読み返した。記事は淡々と事実を述べている。その通りに当然のことなのだ。だが、当たり前のこととして見逃しにできなかった。なんと重い厳粛な事実だろう。胸の中をいいようのないもの悲しい風が吹いていく。歴史の風というのだろうか。『ヨセフもーーーみな死んだ』そうなのだ。

創世記では、ヨセフの波乱万丈の生涯にどれほどはげしく心揺さぶられ、どれほど熱い涙を流しただろうか。場面の一つ一つに喜怒哀楽の感情をかき立てられ、ヨセフを守り通した主を賛美し、ヨセフの生涯に付き添ったような追体験を味わった。

だが、あの麗しの『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。

歴史は次の時代へと移っていくのだ。時の経過はある意味で機械的であり、正確である。時を止めることは出来ない。その流れに逆らうことはできない。無情を感じる。虚しさを覚える。しかしこの事実の前にだれが立ち得ようか。感傷などなにほどのものか。

じっと静かに思い巡らしているとみことばが迫ってくる。

『草は枯れ、花は萎む。しかし私たちの神のことばは永遠に立つ』

記事の背後に,歴史を動かす巨大な神様の力を感じる。威をただしひれ伏すのみである。すべての思いを清め、正す、主へと思いが向かって行く。

8節には『さて、ヨセフを知らない新しい王がエジプトに起こった』とある。ここはいままでにも心に留まり、自分の人生史のいくつかの場面から、新しい人の群れ、あたらしい指導者に会って、良きにつけ悪しきにつけ教えられることがたくさんあった。ヨセフの偉業を知らない人たち、知っていても抹殺しようとする新勢力に怒りを覚えたり、あきらめたりした。『ヨセフを知らない王』の被害に苦しんだこともある。

しかし、『ヨセフを知らない王』が悪虐の限りを尽くし、暴政を振うそのただ中に、神様の剣は歴史を切り裂き、偉業がはじまったのだ。出エジプトのドラマである。神様は時が良くても悪くてもみ業を進められる。むしろ一見、絶望して呻くだけの時にこそ、神様は立ち上がる。ノアの時もそうだった。聖書の事例に信仰の目を留めなければと思う。昨今は、

どこもかしこも世代交代の時期だと言える。この世だけでなく、キリスト教界も、である。自分自身だって盛んな時期は過ぎたのだ。しかし、進退が周辺に影響を与えるような者でないから気楽ではあるが、変わり目の悲劇喜劇を目撃しなければならない。観客席に座る者にも辛いときがあるのだ。うろたえたり心騒ぐことがある。

『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。

『ヨセフを知らない王がーー起こった』

 神様の愛と救いのみ業を見つめつつ、『みな、死んだ』の一人になる時まで、

『草は枯れ、花は萎む。しかし私たちの神のことばは永遠に立つ』を確信し、そこから不動の信仰をいただいて、今日一日を生き抜きたい。今日一日を、である。(終)

2024年02月05日