海と山に囲まれた街で


****************************土筆文香


  **ふるさとといえば、真っ先に山と海に囲まれた街、神戸を思い浮かべる。生まれは東京だが、中学1年の時父親の転勤で引っ越し、12年間神戸に住んでいた。

**新しい家は坂の上に建っていた。そこは山を切り開いてできた住宅地で見晴らしがよく、2階の部屋の窓から海が見えた。

「空気もきれいだし、きっと喘息が治るね」母が言った。

**3歳のころから小児ぜんそくで苦しんできた。神戸への引っ越しは転地療法になるだろうと、家族は期待していた。

**いつかあの海まで歩いて行こう。わたしは青い瀬戸内の海を見て大きく息を吸い込んだ。

**海はいつも青いわけではなかった。にぶい鉛色、くすんだ茶色、嵐のときはいくつもの白い波頭が見えた。

**坂の下に病院があった。いつまで病院にかからないですむか母と賭けをした。母は3か月、わたしは1年と言ったが、1か月もたたないうちに病院通いが始まった。 喘息は治るどころかどんどん悪化し、ステロイド剤を飲まなくては発作がおさまらなくなるほどだった。夜中に何度も坂の下の病院へ母に連れて行ってもらった。

**病院の帰り、注射でおさまったはずの発作が起き、坂を上れなくなった。母は背負うことができないので、走って父を呼びに行った。真っ暗な中にひとり取り残され、 坂道を這いながらポタポタと涙をこぼした。「なぜこんなに苦しい思いをしてまで生きなくてはならないのですか。早く死にたいです」と、満天の星空を見上げて訴えた。 そのときは、病気だけでなく精神的にも非常につらい時期だった。

**中3になったとき、父が犬を買ってきた。祖母が動物嫌いなのでこれまで飼えなかったのだが、庭で飼うのならいいと言ってくれたのだ。わたしが犬を散歩させることによって 体力がつき、喘息が治るのではないかと思ってのことだった。

**わたしは犬をかわいがり、毎日の散歩を欠かさなかった。近所には坂を利用して作られた公園がいくつもあり、公園めぐりをしながらいつまでも海を眺めていた。

   高校生になったとき、一生治らないと思っていた喘息が治ってきた。幼稚園教諭の資格をとって、幼稚園に勤められるほど元気になった。

**就職して2年目、三浦綾子の本を読んで教会に導かれた。六甲山で行われた修養会に参加したとき、まわりの人たちが輝いて見えた。自分も教会の人たちのようになりたいと思い、 洗礼を受けた。

**神戸から東京に引っ越すことになったとき、ひとりで家から海まで歩いて行った。引っ越したら毎日海を見ることはできなくなる。 青い海を見て、12年前のように大きく息を吸い込んだ。

**神戸で暮らせてよかった。神様は「生きよ」と言ってくださった。こんなわたしでも生きていていいのだとわかったから。愛されている存在だとわかったから。  

 









****************************島本耀子


**私が育った世田谷の家は最寄りの駅から真っ直ぐ北へ、大人の足で約15分だった。 更に北の京王線寄りに徳富蘆花の旧居がある。隣にキリスト教会があって蘆花は移住したのだが、蘆花に牧会を断られた教会は他所へ移り、石柱だけが残った。 少しずつ広がった蘆花宅の敷地が今の蘆花公園である。

**我が家の裏手の坂道を下りきると釣鐘池があった。満々と湛えられた水は川に注ぎ入り、多くの田を潤していた。その川の向こう側にあるのが、蘆花に断られて移った教会らしい。 わずかながらクリスチャン家庭もあり、数人の同級生が、そこの日曜学校に通っていることを小耳に知った。しかし私には、教会とは日曜学校とは何か、なぜ日曜日まで 学校へ行くのか理解できなかった。

**釣鐘池周辺に住む縄文人の末裔は古い因習の世界に生きていた。母は地元民だが、静岡出身の父は「来たり者」と言われていた。幼かった私の行動範囲も、 家の前の表通りから川までだった。 車は少なく、リヤカーを徒歩で引き、自転車に連結したりする。牛馬の荷車も多かった。花屋さんが、自転車の荷台に仕入れの荷を積んで通る。 大きな筒状の荷の端から覗く花たちが放つ濃厚な香りを、走り去る一瞬に楽しんだ。

**田の畔でセリや野蒜を摘んだ。細い澄んだ流れの中で小さな川エビを掬って遊んだ。だが、その一画は戦後のマッカーサー指令により、緑地帯に指定された。 今は広域避難区域の公園予定地である。宅地開発で水は枯れ、田畑が消えた。浅くなった釣鐘池だけが、「釣鐘池公園」として残っている。昔の風景はすべて消えたが、 幼い日々は、はっきりと眼裏に甦る。だが、ここで起きた、未解決の一家4人の命が奪われた事件は、楽しかった思い出に悲しい影を差す。

**駅までの表通りも商店が増え、駅の近くへ行くほど、昔からの狭い道に、自転車や歩行者が溢れている。一方通行の車は、歩行者に合わせて進み、 歩行者も時には立ち止って車に道を譲る。娘時代、和服姿で歩いて行くと必ず、どこかのおばさんの視線を感じた。さりげなくすれ違い、少し行って振り向くと、 その人はまだこちらを見ていたが、今はそんなゆとりなどあり得ない。

**昔は東京郊外と言われた釣鐘池辺りの縄文人の末裔も影は薄れた。「来たり者」の意味はなくなった。世は確実に変わったのだが、旧民法の感覚から抜けられない母にとり 「子」とは男児だけ、女児は男児の支え手に過ぎなかった。

**悩んだ姉は、神の真実の愛を求めてクリスチャンになった。駅の近くに教会もできた。両親が亡くなった今は、実家近くに住む姉の家が実家代わりになっている。6人きょうだいの中で、 神様の愛を知ったのは2人だけだ。

**真の神を知らず、古い因習に捉われた人の多い土地に育ったが、神様はさまざまな機会を与えて、私の信仰の目を開かせて下さった。あの懐かしい風景の中で私を守り、 育てて下さったのは、唯一のキリストの神以外にない。



   
















     
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