望郷哀歌から信仰賛歌へ


****************************三浦喜代子


  ふるさとというと祖母の顔が浮ぶ。
**東京生まれ、東京育ちの私に行き来する故郷はない。父も生まれたときから東京人である。母だけに故郷があった。そこに、 戦後疎開で家族が数年暮らしたので、私にも故郷と呼びたい郷愁の地である。

  母は91歳を目の前にしたクリスマスの朝に、天に帰って行った。寝たきりになってから2年半、3人の妹たちと心を一つにして精根尽きるほど自宅介護した。

** 母が召されて一か月後に、私は妹たちに声をかけた。
「納骨の前に、みんなで母さんの故郷を歩いて来よう」

**千葉県銚子市外川町がその地である。観光スポットとして有名な本州最東端の犬吠岬を、南西に廻った小さな漁師町である。

**母は11人兄妹の末っ子だったから、今となって本家も分家もみな血の繋がりが薄くなり、もはや私たちの泊まれる親しい親戚はない。

**それでも、私は母の故郷に行きたかった。晩年、母は早い時期から帰郷をあきらめていた。体力の限界を感じていたのだろう、どんなに誘っても首を縦にはしなかった。 そのぶん、望郷の想いは強かったのではなかったと、いまさらのように感ずるのだ。

「泊まりは、父さん母さん思い出の、犬吠の暁鶏館にしよう」と相談した。

** 暁鶏館は宿泊者に伊藤博文、島崎藤村を記す老舗旅館だが、地元の人たちが宿泊することはまずない。母は幼い頃から松林の奧にたたずむこの館にあこがれていたらしい。 父の喜寿の時、ようやくそこに宿を取り、宿願を果たした。母は日ごろからよく短歌を詠んだ。遺作にこんな歌がある。

**久々に 故郷の浜に たたずめば 幼き日の海  青く変わらず

「こんなにいい旅、めったにできないね。ここに泊まったのも、いい記念ね」
**私たち4人は子どもの時のように枕を並べ、夜更けまで語り合った。

**母にはこんな一首もあった。

** ふるさとの 岬おもえば しおさいは 荒々しくも 胸にひびけり

**オーシャンビューの部屋のガラス越しに聞こえる海の音は、私には快いのに、なぜ母には荒々しくひびいたのだろう。 おそらく、熱くたぎる望郷の想いが、しおさいに重なったのではないだろうか。

**母は私たち家族のキリスト教一色の中で、50年以上暮らした。その間、信仰を敵視したのではないが、自分からはキリストを受け入れようとはしなかった。

**しかし、86歳のある日、死を予感したのだろうか、突然、信仰を告白した。私と娘と2人の孫の前で「イエス・キリストを信じます」とかしこまったのである。 その声はいかにもか細かったが、今も私の耳底には鮮明である。

   そのころすでに歌が詠めなくなっていたが、今ごろは、神様の御前で、すっかり作風も変えられて、新しい信仰賛歌を披露しているに違いない。たぶん、はにかみながら、おずおずと。私はそれを見るのが今から楽しみでならない。  

 









****************************山本しづか


**時々ふるさとはどこですかと聞かれることがあります。生まれたところでいえば山形県寒河江市慈恩寺という山裾の村です。

**東京大空襲のとき、身重の母は実家のある慈恩寺に疎開して私を生みました。

**その後2歳で養父母のもとにひきとられましたが中学一年になった春、様々な事情で再会した母のもとに2年間預けられました。

**初めて一緒に暮らす母にはなかなか馴染むことができませんでした。お米のとぎ方が悪いと叱られ、帰りが遅いと怒られては養母を慕ってよく泣きました。 そんな私を不憫に思った山形の叔母が「ふるさとを見においで」と冬休みに迎えに来ました。

**冬の慈恩寺はしんとして降り積もった雪が、農家の屋根をおおっていました。 初めて見た雪の深さと静けさに私は言葉もなく見入っていました。

**叔母の家は叔母夫婦と小学生の男の子2人との4人家族でした。軒下には数珠つなぎになった干し柿がいくつも下がっていて、 少し硬い干し柿は噛むと口の中いっぱいにねっとりとした柿の甘みが広がっていきました。

**慈恩寺では初めて会う伯父や叔母たちが感慨深げに私の名を呼ぶのを聞いて、確かにそこで生まれたのだと実感しました。

**それでも私のふるさとは養父母と暮らした東京の下町であったり、慣れ親しんだ近所のおじさんおばさんや幼友達だったり、 今も思い出に残る雑多な情景だとかたくなに思っていました。

**30代でキリスト教の洗礼を受けた私は母への思いも変わってきました。

**パーキンソン病を発症していた母をたびたび訪ねて、イエス様の話をするのが楽しみでした。
「イエス様を信じたらなにもかも許してもらえるの?」
「そうだよ。イエス様を信じて一緒に天国へ行こうね」
「うん、信じて天国へ行きたい」

  終焉も間近と思われるとき、ベッドで寝たきりになった母の傍らで『いつくしみ深き』を歌い、ほとんど言葉を発することもなくなった母の手を取ってお祈りをしました。 母は閉じた目から涙を流し「ああ、ああ」と声をあげて、何度もうなずきました。

**一か月ほど前、久しぶりに会った従姉妹に干し柿を貰いました。噛むと口の中いっぱいにねっとりした柿の甘みが広がって、(ああ慈恩寺の味だ) と一瞬なつかしさがこみあげてきました。

**叔母はだいぶ弱くなったようだと従姉妹が話していました。貰われていった私を不憫に思っていた叔母に、母を天国に送った最期の様子を伝えたいと思いました。 母も私もしあわせだった、慈恩寺ともうひとつ天国という帰るふるさとができたのだからと。

   
















     
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