うつわの歌


****************************駒田隆



**今、わたしの前に、一冊の本が置かれています。その本は『うつわの歌・新版』(みすず書房・2014年) と題し、著者の名前は神谷美恵子とあります。

**神谷美恵子さんは、ご承知の方も多いと思いますが、恵まれた環境にありながらも、51歳の時、ハンセン病患者の施設である、岡山県の長島愛生園医長に就任され、53歳で 辞任された後も、非常勤医師として、愛生園に加えて、同じ島の邑久光明園、香川県の大島青松園でも診療をされ、58歳で病のためこれらの診療を辞任された後も、 患者さんや職員と電話や文通で対話をされ、何回かの入院生活を繰り返されて、65歳で昇天された精神科医でした。

**神谷さんのご主人(結婚当時は、東京大学植物学教室講師)は語っています。

「愛生園に行って働くことは、彼女にとってはいわば「天の声」に従うためのやむにやまれぬ行動であった。しかし一方また、そのために家庭を犠牲にしたくはない、 よき妻、よき母でありたいとする願望が彼女には人一倍強かった。これをどうして両立させることができるか?

  **家にはまだ小学生の息子が2人いる。家をあけるためには、どうしても子供達の世話をするお手伝いが必要になる。しかし私の俸給ではお手伝いを雇うだけの余裕がない。

**そうかといって 彼女は私にアルバイトをさせようとは絶対にしなかった。彼女は自ら語学の教師をして我が家の家計を助けた」とあります。さいわい、良いお手伝いさんが 見つかりましたが。

**島での3・4日の業務を終えて帰るときはいつも疲れ果ててはいたが、家族との再会を心から喜んだ。疲れて帰る妻に対して私になし得たのは、 ただいたわりの言葉で彼女を迎えることだけであった。

**帰れば神戸女学院大学(昭和38年以後は津田塾大学)への務めや、著作、留守中の文債、訪問客との応対、それに一家の主婦としての数々の務めなどが山積している。

**彼女はぐち一つ言わず、むしろゆとりとユーモアをもってそれらを能率よくこなしていた。

  **また東京に住む私の実母を安心させ喜ばすためにいつも心を配った。私は多年の外国生活で英語の力など充分でなければならないはずなのだが、 実際はなかなかそうはいかない。

**私が書く英語の論文や著書の原稿直しについて、彼女はいつも献身的な協力をした」

彼女は歌っています。

******うつわの歌    神谷美恵子

****私はうつわよ、
****愛を受けるための。
****うつわはまるで腐れ木よ、
**** いつ壊れるかわからない。

****でも愛はいのちの水よ、
****みくにの泉なのだから。
****あとからあとから湧き出でて
****つきることもない。

****うつわはじっとしてるの、
****うごいたら逸れちゃうもの。
****ただ口を天に向けてれば、
****流れ込まない筈はない。

****愛は降りつづけるのよ、
****時には春雨のように、
****時には夕立のように。
****どの日も止むことはない。
****痛い時もあるのよ、
****あんまり勢いがいいと。
****でもいつも同じ水よ、
****まざりものなんかない。

****うつわはじきに溢れるのよ、
****そしてまわりにこぼれるの。
****こぼれて何処へ行くのでしょう、
****そんなこと、私知らない。

****私はうつわよ、
****愛をうけるための。
****私はただのうつわ、
****いつもうけるだけ。

  ***************(1936・12・3)


****そして、彼女の朝は、祈りで始まります。

******貧しき主婦の朝の歌  神谷美恵子

  **うつくしきかなこの日
****神のたまえるこの日
****天にはよろこびかがやき
****地にはいのちのかおり

****我何をもてみたさん
****神のたまえるこの日
****そのひとときに
****みいぶきのかよえるこの日

   我ひねもすみ名を讃えん
****神のたまえるこの日
****裏に火起こすときより
****子らのねむり着くまで 

************** (1938・6・18)

**ご主人は、最後に語っています。
「対外的には悩める人、病める人の側に立ち、対内的にはよき妻、よき母になろうとして、力のかぎりをつくした生涯であった。
愛生園には通えなくなっても、死ぬまで心は患者さん達と結ばれていた」

(引用資料は、すべて『うつわの歌・新版』による)























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